日本の歴史において、奈良時代とは710年(和銅3年)から784年(延暦3年)までの74年間のことを指します。
この時期、天皇を中心とする政府が奈良に置かれており、そのためこの時代は奈良時代と呼ばれています。公式名称は平城京ですが、一般には奈良の都と呼ばれています。
奈良時代には、元明、元正、聖武、孝謙、淳仁、称徳、光仁、桓武の8人の天皇が在位しましたが、桓武天皇は後に都を移動したため、奈良時代のうちには含まれません。
この時代は、8世紀の大部分に相当し、文武天皇の治世下で大宝律令が完成し、中央集権の国家体制が整備されました。
政治の中心である平城京は、藤原京よりも大きく、大安寺、薬師寺、興福寺、東大寺、法華寺、西大寺などの寺院が建設され、仏教文化が栄えました。また、遣唐使が再開され、新羅や渤海との交流が行われ、多くの海外文物が輸入されました。
しかし、奈良時代には社会問題もありました。
律令制度の下で貧困な農民が増え、浮浪者が現れ、飢饉や疫病が頻発しました。
そのため、奈良時代中期には公地公民の制度が動揺し、時代の変わり目と見る声もあります。
後期には政変が相次ぎ、僧道鏡が法王として政治を行うなど、奇抜な政治形態も生まれました。奈良時代の最後、8代目の桓武天皇は784年に都を平城から長岡京に移し、奈良時代は幕を閉じました。
奈良時代の出来事を紹介
奈良時代には政治の様相が変化し、いくつかの重要な出来事が起こりました。以下に、その主な出来事を紹介します。
公地公民制の瓦解
奈良時代に入ると、大化の改新(645年)によって確立された公地公民制が崩れ始めました。この制度では土地と人民はすべて天皇の所有でしたが、時が経つにつれてその制度は揺らぎを見せます。
奈良時代初期には、農民たちは土地を所有する権利を持ちませんでした。朝廷から貸与された口分田で作物を育て、その収穫物を税として納めました。しかし、口分田を耕す農民の数が減少し、自分の所有にならない土地を耕すことに対するモチベーションが低下しました。
新しい土地政策の登場
朝廷はこの問題に対処するため、723年に「三世一身法」を発布しました。これにより、土地を開拓した場合、その土地は3世代まで所有できるというものでした。しかし、この制度は望ましい結果をもたらさず、土地を開拓する農民には長期的な所有権がないことが問題となりました。
朝廷は次に「墾田永年私財法」を制定しました。これにより、自ら開拓した土地は無期限で所有できることになり、農民のモチベーションが高まり、税の納入が改善されました。
生活の特徴
奈良時代の人々の生活は、和同開珎という貨幣の流通や食事、服装などで特徴づけられました。
708年に鋳造された和同開珎は物々交換から貨幣経済への移行を促し、市場での取引が活発化しました。また、食事や服装は身分や位によって大きく異なり、貴族階級の贅沢な食事や絹の衣服と、庶民の質素な生活が対比されました。
奈良時代の文化と発展
奈良時代は、強い唐の影響を受けた時代であり、「天平文化」として知られています。この時代には、現代でも残る多くの歴史的な文学作品や建築物が生まれました。その具体的な特徴を見ていきましょう。
最古の歴史書や歌集
奈良時代に執筆が始まり、完成した歴史書の一つに「古事記」があります。この書には日本列島誕生の神話などが含まれており、天皇の神の子であることを示すことで国を統治しやすくする目的がありました。
また、「日本書紀」や「風土記」など、日本各地の産物や風習をまとめた書物もこの時代に編纂されました。さらに、「万葉集」は現存する日本最古の歌集とされ、天皇や貴族だけでなく庶民の歌も含まれており、当時の生活や心情を知る貴重な資料となっています。
建築物や仏像
奈良時代の代表的な建築物としては、「東大寺」にある奈良の大仏「盧舎那仏像」が挙げられます。この他にも「東大寺法華堂」や「正倉院宝庫」、「唐招提寺金堂」、「法隆寺伝法堂」など多くの寺院が建てられました。これらの建築物は調和の取れた美しさで知られ、国宝に指定されています。
仏像も多く制作され、和紙や麻布、粘土などで造られました。興福寺の「八部衆立像」や東大寺の「四天王立像」などがその代表例です。これらの仏像は表情豊かで美しいバランスが特徴とされています。
奈良時代は政治の仕組みや文化が大きく発展した時代であり、墾田永年私財法や和同開珎などの政策が導入され、歴史書や歌集の作成、寺院の建設など様々な文化が花開いた時代です。
奈良時代に作られた大仏とは?
奈良時代に造られた大仏として有名なのは、東大寺にある盧舎那仏坐像です。一般的には「奈良の大仏さん」と親しみを込めて呼ばれています。
聖武天皇が743年に政情不安を解決するために「大仏造立の詔」を出し、この大仏の建造が始まりました。大仏造立と寺院の建設は国の力を集中して行われ、752年に開眼供養会が行われました。
この大仏は高さ約15mで、顔の幅は約3.2m、手の大きさは約2.5mあります。お釈迦様の身長を10倍にして無限の宇宙を表現しているとされています。もし立ち上がったとすると、身長は約30mに達すると言われています。
完成後数十年で亀裂や傾きが生じ、855年の地震で被災し、首が落下しました。修理は真如法親王(高岳親王)らによって行われ、861年に大法会が開催されました。
大仏が安置されている大仏殿は奈良時代に建てられ、その後2度の火災に見舞われました。現在の建物は江戸時代に再建されましたが、財政難のため規模が縮小されました。それでもなお、高さや奥行きは創建時と同様であり、世界最大級の木造建造物です。
奈良時代の外交関係について
唐との外交関係
東アジアに広大な領域を支配し、大きな影響力を持つ唐が618年に隋を継いで中国を統一しました。
唐は国際都市として繁栄する長安を中心に、周辺諸国との交流を活発化させ、漢字や儒教、漢訳仏教などの文化を共有し、東アジア文化圏を形成しました。
日本では、この唐との関係において、天皇が中国の皇帝に匹敵する存在として位置づけられ、国家の統治権が及ぶ範囲を「化内」とし、それ以外を「化外」として区別しました。
化外を更に分けると、唐を「隣国」、朝鮮諸国を「諸蕃」、蝦夷・隼人・南島人を「夷狄」と規定し、この枠組みを「東夷の小帝国」と呼びました。遣唐使の派遣や留学生・学問僧の往来があったものの、日本は唐の冊封を受けず、事実上は唐に朝貢する国でした。
日本から派遣された遣唐使は、630年の犬上御田鍬をはじめとして、奈良時代にはほぼ20年に1度の頻度で行われました。
大使を含む使節団は、留学生や学問僧を加えて約500人で4隻の船で渡海しました。
彼らは正月の朝賀に参列して皇帝を祝賀し、帰国時には多くの書籍や優れた工芸品を持ち帰りました。特に留学生や留学僧は、帰国後に日本で指導的な役割を果たし、日本の政治や文化に影響を与えました。
これらの交流によって、奈良時代の日本は唐の政治制度や文化を取り入れ、国際的な地位を築いていきました。
新羅との外交関係
白村江の戦いの後、朝鮮半島を統一した新羅との間には多くの使節が行き来しました。
しかし、7世紀末から8世紀にかけて、日本は律令体制を築く過程で中華意識を高め、新羅を「蕃国」と見なし、従属国として扱おうとしたため、衝突が頻発しました。
このため、遣唐使のルートも何度か変更されました。新羅は唐との戦争中であり、日本が唐側につかないようにするため、使節を派遣し続けました。
しかし、渤海との関係が好転すると、新羅は朝貢の必要性を感じなくなり、対等な外交を主張しました。日本はこれを受け入れず、両国の関係は悪化しました。
新羅は日本の侵攻に備えて城を築き、日本も軍備を強化しました。755年には新羅への征討戦争の準備が進められましたが、実現には至りませんでした。
その後、新羅は使節の派遣を停止し、779年に最後の使節が派遣されるまで、国交は途絶えました。
一部の説では、新羅は日本の要求に応じる必要性を感じないまま、使節を派遣しなかったとされています。
また、新羅は日本の朝貢要求を拒否するようになり、使節が現地で妥協した可能性もあります。
一方で、新羅は民間交易に重点を置き、唐よりも日本との交流が大きかったとされています。8世紀末には遣新羅使の正式派遣が途絶えましたが、新羅商人の活動はむしろ活発化しました。
渤海との外交関係
奈良時代の外交において、渤海との関係は重要な要素でした。
渤海は713年に靺鞨族を主体として、旧高句麗人(狛族)と共に中国東北部に建国されました。
渤海と日本との関係は、唐や新羅との対抗上で重要視され、727年に渤海は日本に使節を送り、国交を求めました。
渤海は内外の危機的状況から、日本の朝貢形式を受け入れました。日本は渤海との交流を重視し、遣渤海使を派遣しました。
日本は渤海に対して臣称・上表形式の国書の送付を求めましたが、渤海はこれを拒否し、「啓」という形式の国書を送りました。
これは個人間の書信形式であり、国書の一般的な目的と合致していました。日本は一貫して「臣称・上表」形式を要求しましたが、結局、啓を「慣例」として受け入れました。
唐との関係改善後、渤海使の軍事的役割は低下し、交易の比重が増加しました。
その後、渤海との交流は商業的なものとなり、来日の頻度も増えていきました。
日本から渤海への国書は、天皇からの慰労詔書形式であり、対等国ないし特別に尊重すべき相手国に出す書式でした。日本は渤海や新羅を臣属国としようとしましたが、実際にはこれは成立しませんでした。
薩摩隼人との外交関係
奈良時代において、九州南部では独特な墓制が現れ、古くは熊襲と呼ばれ、後に隼人と呼ばれるようになりました。
大和政権の影響が及ぶようになっても、大宝律令の施行時点でもこの地域は律令制的支配の及ばない地域でした。
699年には三野城や稲積城が築かれ、律令国家の支配が進んでいきました。709年には隼人の朝貢制度が始まり、隼人が異民族たる「夷狄」として朝廷に服属していることを示しました。
一方で隼人の抵抗もあり、720年には大隅国の国守が殺害される事件が起こりました。これに対し、律令政府は大規模な軍を派遣して鎮圧しました。その結果722年には造籍が行われ、隼人の組織的な抵抗はなくなりました。
一方、南西諸島からは7世紀の前半から使者が大和政権に「朝貢」するようになりました。
698年には覓国使が南島に派遣され、翌年には多褹、夜久、菴美、度感が朝貢に訪れました。南島からは夜光貝や赤木などの特産物がもたらされ、逆に鉄器が南島へもたらされました。9世紀になると、律令国家の関心は薄れていきました。
蝦夷との外交関係
奈良時代において、蝦夷と呼ばれる人々については、歴史上さまざまな見解がありますが、律令国家にとっては「自らの支配下にある外部の人々」という認識でした。
しかし、奈良時代に入ると、財政悪化により平城京の建設や軍隊の整備に取り組む中で、これまで支配下とは見なされていなかった蝦夷からも税を徴収する必要が生じ、大規模な侵略が始まりました。
阿倍比羅夫らが7世紀半ばに現在の秋田や津軽地方に進出し、8世紀初頭には山形県庄内地方や宮城県中部以南まで支配下に入りました。
当時は城や柵が築かれ、周囲には関東や北陸地方からの移民が配置されていました。
政府は拡大政策を進め、708年には越後国に出羽郡を設置し、712年には出羽国としました。一方、蝦夷は709年と720年に反乱を起こし、720年には陸奥按察使上毛野広人が殺害されました。
政府は大規模な軍事力を投入して鎮圧し、新たに多賀城を建設しました。733年には出羽柵が秋田市に移設されました。
政府は蝦夷の首長を任命して部族集団を間接的に支配し、服属した者は他の地域に移住させられました。
こうして東北地方南部は律令制に組み込まれましたが、北部は未だ支配下にありませんでした。
しかし文化や経済の交流は続き、出羽地方の古墳や恵庭市で和同開珎が出土するなどの影響が見られました。
藤原仲麻呂政権は積極的な対蝦夷政策を展開しました。757年には朝狩が陸奥守となり、桃生城や雄勝城を建設しました。762年には多賀城を改修し、蝦夷への供給を行う施設へと変えました。
774年に桃生城が襲撃される事件が起こり、これ以降は戦乱の時代に突入します。これらの戦争は天皇の政治的権威を強化する役割を果たし、奈良時代から平安時代へと続いていきました。
まとめ
奈良時代は、日本の歴史の中で奈良時代(710年 – 794年)と呼ばれる時期で、飛鳥時代に続き、日本が政治・文化の中心地を奈良に移しました。以下に奈良時代の特徴をまとめます。
都の遷都: 奈良時代の始まりにあたる710年に、現在の奈良市に平城京(へいじょうきょう)が建設され、政治の中心地が移りました。これは日本初の永住都であり、中国の都市計画を参考にして造られました。
律令制度の確立: 奈良時代には律令制度が確立されました。これは中国の制度をモデルにした中央集権的な政治体制で、国を八省に分け、各地に官衙(かんが)を置いて地方行政を統括しました。
仏教の普及: 奈良時代には仏教が広く普及し、仏教寺院が建立されました。特に天平文化の時代には多くの寺院が建立され、仏教美術や仏教文化が発展しました。
外交と文化交流: 奈良時代には、唐や新羅、渤海などとの外交が盛んに行われ、文化交流が行われました。遣唐使や遣新羅使が派遣され、外国の文化や技術が日本に伝わりました。
古代文学の隆盛: 奈良時代には古代文学が隆盛し、万葉集や古事記、日本書紀などが編纂されました。また、漢詩や和歌の詩歌文学も発展しました。
人口の増加: 農業技術の向上や土地の開発により人口が増加し、国土が拡大しました。このため、土地や税制の整備が進められました。
東大寺の建立: 752年には奈良に東大寺が建立されました。東大寺は当時の国家の威信をかけた国家的プロジェクトであり、大仏や大仏殿などの建造が行われました。
奈良時代は、政治・文化・経済の発展が著しく、日本が東アジアの中心的な国として成長していく基盤が築かれた時代とされています。