戦国時代はいつからいつまでだったのか?

戦国時代は、時期の定義に関していくつかの見解があります。室町時代末期から安土桃山時代にかけて、政権による時代区分と並行して「戦国時代」と呼ばれています。

一般的に、戦国時代は15世紀後半から16世紀後半、応仁の乱(1467年から1477年)から織田信長の上洛(1568年)までの期間とされています。

しかし、小谷利明によれば、室町幕府と地方の関係を重視する場合は日本全体の歴史を考慮すべきであり、各地域の歴史に基づいて戦国時代の期間を設定することも可能です。

永原慶二も、始期と終期は統一権力か地域権力かによって変わると述べています。

また、1960年代には鈴木良一が明応の政変を始期とする説を提唱しましたが、後の研究でこの見解が変化し、明応の政変は中央と地方の政治情勢の連動を示す重要な出来事とされるようになりました。

戦国時代の終期についても諸説あります。織田信長の上洛や室町幕府の滅亡、豊臣秀吉による軍事活動の終了など、複数の見解が存在します。

地域によっても戦国時代の始期と終期は異なります。

畿内では明応の政変を始期とし、足利義昭と織田信長の上洛を終期とする見解があります。

関東地方では享徳の乱によって始まり、豊臣氏による小田原征伐によって終わったとされています。

東北地方では永享の乱が始まりであり、豊臣氏による奥羽仕置が終焉とされています。

一方、西国地域では具体的な始期が特定されていない場合もあります。

戦国時代は、15世紀末から16世紀末にかけて日本で戦乱が頻発した時代です。

室町幕府の権威が低下し、戦国大名が台頭するなど、日本の歴史において重要な時期でした。

戦国時代が始まった理由とは?

歴史上、戦国時代は絶え間ない争いが続く時代として知られていますが、日々が戦争状態であったわけではありませんでした。

この時代には、室町幕府による従来の権威が否定され、守護の支配下にあった人々や新興の指導者たちが台頭し、領土を支配するようになりました。

中には、家臣が主君を追放して地位を手に入れるなど、様々な経緯を持つ戦国大名が出現しました。

畿内を中心に始まった地域間の利害衝突が、全国各地で拡大しました。

これにより、従来の上位権力による統制が困難となりました。

この背景には、貨幣経済の発展と地域経済の成長がありました。

これにより、従来は無名であった人々も成功を収めることができるようになり、社会構造が大きく変化しました。この変化に伴い、従来の荘園公領制も崩壊しました。

経済の急速な成長と武力紛争の頻発に対応して、都市部では町や農村部では惣村と呼ばれる自治共同体が興りました。

これらの共同体は、町人や百姓の一揆契約に基づき、武装して自らを守ることができる組織でした。また、戦国大名の領国もこのような町村を基盤として組織され、後の幕藩体制や近代の地方自治体も同様の基盤を持つこととなりました。

戦国時代の歴史を順を追ってわかりやすく紹介

細川政元と明応の政変

1489年の足利義尚の死後、その翌年に足利義材が将軍に就任し、独裁的な政治を展開しました。1491年には六角氏を攻め、続いて畠山氏の内紛に介入するなどしました。

しかし、1493年には細川政元らがクーデターを起こし、新たに足利義澄を将軍に据えました。これにより、将軍家は義稙系と義澄系に分かれました。この政変は、地方の大名や武将たちにとっても重要であり、各地での抗争を引き起こしました。

義稙に味方した北陸の大名には、越後守護の上杉房定も含まれており、彼らも義稙を支持しました。また、伊豆守護である上杉顕定も義澄との対立から争いが始まりました。この対立は、関東地方の中心的な政治対立として長く続きました。

1499年には義稙が上洛作戦を開始しましたが、失敗に終わり、周防に移りました。一方、九州では大内氏と大友氏の抗争が続き、将軍家との関係も絡んで深刻化しました。1500年には大友親治が義澄派に転向し、対立が激化しました。義稙と義澄の双方は多数派工作を展開し、全国規模での対立が続きました。

これらの政治的な対立は、地方の武家領主にとっても重要であり、地方の状況に大きな影響を与えました。

両細川の乱

1505年12月、畠山尚順と畠山基家の後継者である畠山義英が和睦し、両者とも足利義稙に味方して足利義澄・細川政元に反抗しました。

これを受けて、義稙は1506年2月に上洛作戦を計画しましたが、政元が早くも1505年11月に両畠山氏を攻撃して打ち破ったため、作戦は回避されました。

1507年6月、政元は後継者争いから細川澄之派の内部抗争によって暗殺されました。

政元の死は、新たな政治対立を引き起こしました。細川京兆家も澄元系と高国系に分裂し、この抗争は各地方の紛争と連動しながら展開していきました。

政元を暗殺した澄之も同年8月に高国に討たれ、澄元が家督を継ぎました。

しかし、これを好機と見た義稙と大内義興が上洛作戦を決行し、澄元との関係が悪化していた高国も合流しました。

1508年4月には、義澄と澄元は近江に追いやられ、代わって義稙が将軍に復帰しました。翌1509年6月、澄元方は再び上洛し、澄元方の三好之長は京都を見下ろす船岡山に陣を敷きました。

しかし、阿波・讃岐では政争が発生し、敗れた澄元は阿波に逃れました。

澄元は1511年に再び上洛戦を開始しました。

畠山総州家の義英が加勢し、四国からも多くの勢力が澄元を支援しました。これに対し、義稙・高国・義興は丹波に退いた後、京都に進軍し、船岡山で澄元軍を破りました。

この戦いの直前に義澄が亡くなったため、澄元は阿波に撤退しました。

その後も澄元は京都への復帰を目指しましたが、細川成之と細川之持没後の細川讃州家の立て直しにより、しばらく阿波に留まることとなりました。

しかし、1518年に義興が帰国し、関係が悪化したため、1519年に3度目の上洛戦が始まりました。

この戦いで義稙を味方に引き入れた澄元は、京都に留まることに成功しましたが、高国との対立が深まりました。

1520年には高国が反抗作戦を開始し、澄元は阿波で病死しました。一度は高国を見限った義稙も再び彼と共に政務に復帰しましたが、1521年に出奔し、1523年に阿波で亡くなりました。

堺公方府の興亡

1521年、高国は義稙に代わって播磨から足利義澄の長男、足利義晴を招聘して12代将軍に任命しました。

続く数年間、東国の武家領主が義晴の就任を祝うために上洛するなど、多くの武家たちから支持を受けました。しかし、1525年に高国が亡くなり、家督を嫡男の細川稙国に譲り、再び政務に復帰しました。

高国政権は、高国と細川家の内部関係が悪化したことで崩壊しました。

1526年、高国は内衆の香西元盛を疑い、自害させました。

これを機に、元盛の兄弟である波多野元清と柳本賢治が高国から離反し、細川晴元に味方しました。

晴元は畿内への進軍を計画し、内衆の支持を得ました。

1527年、晴元は桂川での戦いに勝利し、高国と義晴は近江に逃れました。

その後、堺に上陸した義維と晴元が対立し、堺公方府と近江の両公方体制が成立しました。同年、義晴と高国は上洛戦を行いましたが、京都を奪還できず、再び近江に撤退しました。

その後、高国は播磨の浦上村宗の支援を受けて上洛戦を再開しました。

1531年、高国と村宗は摂津で晴元方の城を攻略しましたが、晴元は三好元長を召喚して高国と村宗に対抗しました。

元長の活躍により高国と村宗は敗北し、高国は自害しました。

しかし、堺公方府内では政権構想について意見が対立し、公方府は崩壊しました。その結果、晴元は義晴を推戴することになりました。

三好長慶の覇権

細川晴元が政権を掌握した後、足利義晴は享禄年間以降、内談衆を組織して自ら政治を始め、細川氏の抗争に中立の立場を取るようになりました。

六角定頼も政権内で影響力を持ち、晴元の存在は薄くなっていました。

天文年間の動乱は畿内の細川京兆家と中国地方の大内氏と尼子氏の争いが連動して展開しました。

晴元は大内義隆と提携し、六角定頼、山名祐豊、赤松晴政、土佐一条氏なども晴元と大内陣営に参加しました。

一方、細川氏綱率いる氏綱派は畠山稙長、尼子晴久、安芸武田氏、若狭武田氏、山名氏、河野氏、香宗我部氏と連携して晴元・大内陣営に対抗しました。

1538年、旧高国派による反乱が始まりました。

畠山稙長と尼子晴久が将軍・高国系の細川氏と本願寺と連携して上洛を計画しました。

また畿内でも旧高国派による攻撃が丹波と山城国の宇治で行われました。1544年、細川氏綱の子である細川氏綱が和泉で蜂起し、1547年の舎利寺の戦いで敗北した後、長慶が氏綱派に転じ、晴元に対抗しました。

長慶は1549年の江口の戦いで晴元に勝利し、晴元は足利義輝と共に近江に逃れました。

長慶は当初、氏綱を支持しましたが、後に自ら政治を主導するようになりました。

一方、中国地方では1548年に因幡系山名久通が敗北し、因幡から没落しました。

3年後の1551年には晴元派の大内義隆が陶晴賢に攻められ自害し、氏綱派の尼子晴久は8ヵ国の守護に補任されました。

1552年、義輝が長慶と和睦し帰洛しましたが、晴元は反発して出奔し、長慶に抵抗しました。また、義輝も長慶との対立が再燃し、1553年に東山霊山城に入城して再び長慶と対抗しましたが、敗れて再び近江に滞在しました。

永禄の変

足利義輝の近江出奔後、三好長慶は畿外の晴元方勢力を鎮圧し、勢力を拡大していきました。

永禄4年(1561年)頃には阿波・讃岐・淡路・摂津・和泉・河内・丹波・大和・山城に加え、一部の播磨も支配下におさめ、全盛期を迎えました。

一方、近江に逼塞していた義輝は永禄元年(1558年)に上洛を試みました。

長慶も四国勢を召集して対抗しましたが、11月に六角義賢の仲介で和睦し、義輝の京都復帰が実現しました。

その後も一定の支配権を維持した義輝は地方政策の転換を表明しました。

これまで幕府は、九州では九州探題の渋川氏を最も権威ある存在として認識し、奥州では奥州探題の大崎氏を地域の秩序の中心としていました。

しかし、永禄2年(1559年)に大友義鎮を九州探題に、伊達晴宗を奥州探題に補任し、さらに上洛した上杉謙信に対し関東管領・上杉憲政の進退を一任しました。

こうして義輝は室町幕府を頂点に、地方の有力大名を取り込む新たな秩序を築きました。

しかし永禄8年(1565年)5月、長慶の没後、三好家の家督を相続した三好義継らによる御所巻が争いに発展し、その中で義輝は討死してしまいました。

このクーデターが社会に与えた衝撃は大きく、軍記である太田牛一筆の『信長公記』でも永禄の政変から記述が始まるほどでした。

永禄9年(1566年)、阿波から上洛した足利義栄が将軍に補任されましたが、幕府機構の整備が進まず、上洛せずに摂津・富田の普門寺で病没しました。

一方、政変後、大和・興福寺から脱出した義昭は越前から上洛への協力を呼びかけ、信長の支援を受けて上洛戦を行いました。信長との連携により畿内を平定した義昭は、永禄11年(1568年)に第15代室町幕府の将軍に就任しました。

一度は阿波に退いた三人衆ですが、永禄12年(1569年)に反撃を試み、義昭を急襲しました。しかし幕府軍が奮戦し、天下の平穏を守りました。

織田信長の天下へ

軍の警護を難しいと判断し、永禄13年/元亀元年(1570年)1月、諸大名や国衆に共同で将軍を支持する体制を作るための呼びかけを行いました。

この呼びかけは伊勢・三河・遠江・飛騨・但馬・河内・大和・和泉・播磨・丹波・丹後・若狭・近江・紀伊・越中・能登・甲斐・淡路・因幡・備前・摂津の大名や国人・国衆に対して行われ、多くの大名が応じました。

しかし、朝倉義景だけは応じず、信長は義景を討伐するための越前征伐を試みましたが、浅井長政の裏切りにより失敗に終わりました。

その後も信長は朝倉・浅井連合軍と戦い、勝利しましたが、その後も三好三人衆や本願寺・顕如らの包囲網と対峙しました。

信長はさらに甲斐の武田信玄との緊張も増し、元亀3年(1572年)10月に甲斐から西方に出兵しました。

さらに、将軍・義昭と信長の関係も悪化しました。元亀3年末から元亀4年(1573年)正月にかけて、信長は義昭に対し厳しい批判を行いました。

同年2月、義昭は信長を討伐するために挙兵し、信玄も上洛を目指しましたが、信玄は病没し、義昭は7月に信長に敗れて京都から追放されました。

天正に改元後、信長は朝倉・浅井氏を滅亡させ、11月には河内若江城の三好義継も攻撃され自害しました。

こうして室町幕府の時代は終わり、安土桃山時代が始まりました。

戦国時代とはどんな時代だったのか?

戦国時代における「天下」と「国家」

「天下」という概念はもともと、特定の領域を指すものではなく、地理的な区分である「国」を含むことがあります。

一方で、「天下」の狭義の意味は、古代において天皇を中心とした王権による支配領域を指し、具体的には畿内を指すことがありました。

中世や戦国時代における「天下」は、日本全体を含む場合もありますが、具体的には足利将軍を指し、その領域としては京都を含む五畿内を表していました。

例えば、織田信長が永禄10年(1567年)以降使用した「天下布武」の印章も、将軍の支配下で五畿内に平和をもたらす意志を表していました。

一方、「国家」とは、戦国大名などが使用した言葉で、「国」と「家」が合体したものです。

ここでの「国」は分国を意味し、その集合体が領国とされます。戦国時代の「国家」には国民主権はなく、領民は大名に服属し依存する存在でした。

ただし、戦国大名の「国家」には明確な限界があり、大名の一族や家臣、寺社に対してのみ使用され、国人や国衆には受け入れられていなかったとされています。

このように、「天下」と「国家」は領域の違いだけでなく、それを使用する足利将軍と戦国大名の政治的な次元自体が異なり、重層的に存在していました。そして、「天下」の事柄は「国」の事柄よりも優先され、大名が「天下」の平和のために尽力することは将軍への奉仕を意味していました。

戦国時代の大名たち

戦国時代の大名のほとんどは、守護大名や守護代、国人の出身でした。中には国司(北畠氏)や公家(土佐一条氏)の出身である者もいました。

稀には低い身分出身から戦国大名(例:豊臣秀吉など)となった者もおり、彼らは下克上の典型と見なされることがありました。

戦国大名たちは、領国内で一元的な支配を行いました。

その領国は非常に独立性が高く、実質的な地域国家と見なされるものでした。

このような戦国大名による地域国家内の支配体制を、大名領国制と呼びました。

しかし、戦国大名たちは必ずしも超越的な存在ではありませんでした。

彼らは地域国家内の国人や被官層を家臣として組織化していきましたが、実際にはこれらの国人や被官層が彼らの権力基盤でした。

戦国大名たちは、国人や被官層が形成した一揆関係によって支えられており、国人や被官層の権益を守ることができない戦国大名はしばしば排除されました。

戦国時代の奥羽地方

奥羽地方の戦国大名は、鎌倉時代から土地を所有していた由緒ある一族が多く、そのまま戦国大名になったケースがほとんどでした。

例外は若狭武田氏の末裔である蠣崎氏で、津軽海峡沿いの中小豪族を統一しました。

奥羽地方は、関東の混乱にほとんど関与せず、中央政府の争いの影響もほとんどありませんでした。

戦乱といえば、15世紀前半から南部氏が仙北・鹿角に出兵し(この鹿角争奪戦は永禄時代まで続く)、伊達氏が河北地方に侵攻するなど、領地争いが目立ちました。篠川公方や雫石御所も滅ぼされるなど、東北地方でも平和ではありませんでした。

1522年には、伊達稙宗が奥州探題・大崎氏らを押しのけて陸奥守護職に就任するなど、下克上の兆候が見られました。

しかし、特に奥羽地方の南部では、領主間の結婚が盛んであり、大名に後継者がいない場合には、他の大名家から養子を迎えることが一般的でした。

蘆名晴盛の嫡男が外祖父の岩城重隆の後を継いだり、蘆名氏の当主急死によって急遽蘆名氏の養子となるなどの極端な例もありました。

このため、諸大名の確執が戦闘に発展した場合でも、双方と血縁関係のある第三者が仲介して和解に至ることがよくありました。

1542年には、伊達稙宗父子が家督の位置を巡って争い、奥羽諸大名を巻き込んだ大乱(天文の乱)が勃発しました。

この混乱の過程で、伊達晴宗は国人一揆との契約関係を再確認し、他の奥羽諸大名よりも先に戦国大名としての体制を築くことに成功しました。

以降、諸家の家督相続を巡る争いがありましたが、国人一揆と大名の契約関係の一元化により戦国大名化が進みました。

どの戦国大名も、室町幕府から権力を公認され、各地域の中心勢力を形成しました。そして、豊臣秀吉の奥州仕置によって、彼らの既得権益が認められました。

16世紀後半には、安東氏が秋田、三戸南部氏が糠部、奥州探題大崎氏が大崎、葛西氏が登米、羽州探題最上氏が最上・村山、伊達氏が信夫・伊達・置賜・刈田・柴田・宮城、蘆名氏が会津・耶麻・大沼・河沼・西蒲原・安積・岩瀬、二本松氏(畠山氏)が安達、田村氏が田村、石川氏・白河結城氏が白河、相馬氏が行方・宇多・標葉、岩城氏が楢葉・岩城・磐前・菊田・多賀で安堵を実行った発給文書が残っています。

一般的に、奥羽地方南部では戦国時代末期(1580年代)に伊達政宗が登場し、軍事的な才能を発揮して地域統合を達成したとされています。

しかし、実際にはその直前に常陸国の佐竹義重がこの地域の諸大名を支配下に置いて地域統合を進めていました。政宗の家督継承は、佐竹氏が北上して伊達氏と勢力圏が接する状況下で行われました。

そして、佐竹氏の支配下にあった諸大名に圧力をかけられた正室の実家(田村氏)の救援に乗り出し、佐竹義重の奥州支配との対立に巻き込まれ、やがて政宗自身がその地位を築きました。

戦国時代の関東地方

関東地方では、応仁の乱以前から享徳の乱、長享の乱、永正の乱という3つの大乱が相次いで発生しました。

これらの乱では、古河公方と関東管領の山内上杉家とその庶流である扇谷上杉家が覇権を争いました。

1493年には、今川氏親の叔父である伊勢新九郎盛時(後の北条早雲)が、内乱に乗じて伊豆国の堀越公方である足利茶々丸を滅ぼし、伊豆を平定しました。

彼の子孫が北条氏を名乗り、これに対して上杉氏との争いが勃発しました。

1546年の河越夜戦では、上杉氏の勢力が衰えました。そして、1552年には北条氏が古河御所を制圧し、関東を支配下に置きました。

これにより、山内上杉氏は上野を追われ、長尾景虎(後の上杉謙信)のもとに身を寄せることになりました。

関東管領を継承した上杉謙信は一時的に北条氏の居城である小田原城を包囲しましたが、これを奪うことはできませんでした。

この争いは全関東の諸豪族を二分し、北条氏康と里見義堯(上杉陣営)の間で国府台合戦などの戦いが繰り広げられました。

1579年には、上杉謙信が亡くなると、常陸の佐竹氏、安房の里見氏、下野の宇都宮氏などが北条氏の侵攻に対抗しましたが、北条氏の勢力拡大を阻止することができませんでした。

更には、奥州支配を進める伊達氏によって、佐竹義重は南北両方面での戦いを強いられました。

1582年には、織田氏、徳川氏、後北条氏が武田氏の甲斐・信濃・駿河へ侵攻しました。

しかし、同年に起きた本能寺の変の後、後北条氏は織田氏との同盟を破棄して甲斐・信濃へ侵攻しました。その結果、甲斐・南信濃は徳川氏、北信濃は上杉氏、上野は後北条氏、沼田領は真田氏が支配することとなり、一応の和睦が実現しました。

1590年には、後北条氏の家臣による真田領への侵攻が惣無事令違反とされ、北条氏直は小田原城に籠城しましたが、最終的には落城し、後北条氏は滅亡しました。

これにより、豊臣秀吉による全国統一が完成しました。この時、北条陣営についていた関東の多くの領主は所領を没収され、鎌倉時代以来の名家も姿を消しました。1590年8月には、関東に移し替えられた徳川家康が江戸城に入城しました。

その後、1600年の関ヶ原の戦いを経て1603年には徳川家康が江戸に幕府を開き、関東の旧来の勢力は転封あるいは改易によって姿を消しました。

以後、1867年の大政奉還・江戸無血開城までの264年間、江戸幕府の下で政治・経済の中心として江戸は繁栄しました。明治維新後は東京奠都を経て、首都機能を担うこととなり、現在に至っています。

戦国時代の北関東地方

北関東地方でも、享徳の乱、長享の乱、永正の乱という3つの大乱の影響が及んでいました。下野の宇都宮氏、佐竹氏、結城氏がそれぞれ覇権を争いました。

1506年には、永正の乱の影響で古河公方家内で内紛が勃発しました。

古河公方足利政氏と嫡子の高基の対立が中心であり、政氏を支持する勢力としては下野の小山成長や常陸の佐竹義舜、高基を支持する勢力としては宇都宮成綱がいました。

内紛は関東南部や奥州にも波及し、政氏支持勢力と高基支持勢力の対立が起きました。この内紛は関東各地で戦闘が勃発し、北関東は混乱の時期を迎えました。

戦国時代前期には、下野の宇都宮氏の宇都宮成綱や常陸の佐竹氏の佐竹義舜が北関東の覇権を争いました。

古河公方家の内紛も足利高基の勝利で終結し、宇都宮成綱の代に宇都宮氏が北関東の覇権を握りました。永正の乱に関わった政氏支持の勢力は一時衰退し、後北条氏が北関東に進出するまで高基支持の勢力が増大しました。

戦国時代後期には、後北条氏が北関東に進出し、北関東の各勢力が対立しました。

佐竹氏や宇都宮氏、小山氏らは上杉謙信を頼って後北条氏に抵抗しましたが、結城氏や那須氏、小田氏、壬生氏らは後北条氏側につきました。北関東各地で激しい戦闘が繰り広げられました。

戦国時代の甲信地方

甲信地方では、守護権力が衰退し、力を持つ国人が各地に勢力を持っていました。

甲斐国では、甲斐源氏の末裔である武田氏が上杉禅秀の乱に巻き込まれ没落し、それ以降国内で抗争が続いていました。

一方、信濃国では、松本地方に小笠原氏が、北信に村上氏・高梨氏、東信に海野氏、安曇に仁科氏、諏訪に諏訪氏、木曾に木曾氏などの国人領主が各地に割拠していました。

やがて、武田信虎が甲斐一国を統一し、甲府を本拠地とし、隣国との和睦も達成した後、信濃への侵攻を始めました。

しかし、嫡男の晴信(信玄)や重臣らの謀反により、1541年に駿河国へ追放されました。

信玄は信濃侵攻を本格化し、甲相駿三国同盟の背景に諏訪攻略を含め、小笠原氏や村上氏らを駆逐し、信濃を武田領国にしました。

信玄は信濃守護も兼ね、越後の長尾(上杉氏)と10年以上にわたって甲越対決(川中島の戦い)を繰り広げました。

その後、武田氏は甲相駿同盟を破棄し、桶狭間の戦い後に弱体化した今川氏領国への駿河侵攻を行い、尾張の織田氏・三河の徳川氏とも対峙しました。

信玄の晩年には大規模な西上作戦を展開しましたが、野田城攻略中に急死し、途中での撤退を余儀なくされました。

1575年、三河の長篠城を巡る長篠の戦いで大敗した武田氏は領国の動揺を招き、1582年には武田氏は滅亡しました。

その後、甲斐・信濃は織田信長の家臣滝川一益らに分配されましたが、本能寺の変後、後北条氏が侵攻し、信長の同盟者である徳川家康、北条氏政からの侵攻を受け、武田勝頼・武田信勝父子は自害しました。

戦国時代の北陸地方

北陸地方では、越後国は上杉(長尾)氏、越中国は神保氏や椎名氏、能登国は畠山氏、越前国は朝倉氏、加賀国は一向一揆らによって支配されていました。

越後国では、守護代である長尾氏が力を持ち始めました。その後、長尾氏から生まれた景虎(後の上杉謙信)は、1576年までに北陸地方をほぼ支配下に置きました。

越中では、初めは敵対していた神保氏が一向一揆と手を組んだものの、越後上杉氏、守護畠山氏、能登畠山氏の連合軍によって打ち破られました。

能登国では、守護の畠山氏が、長氏らの重臣たちの独断専行に苦しめられ、内部で争いが繰り返されました。1576年には、越後上杉氏の攻撃を受け滅亡しました。

越前国では、斯波氏を追い落とした朝倉氏が一向一揆を撃退し、一乗谷に京の貴族を招いて栄華を極めました。しかし、1573年に織田信長の侵攻を受け、朝倉義景が自害し朝倉氏は滅亡します。その後、一向一揆の動乱もあり、織田軍によって平定されました。

加賀国では、守護の冨樫氏を滅ぼした加賀一向一揆が「本願寺王国」を形成し、100年間の自治を行いました。しかし、織田信長の家臣である柴田勝家軍に敗れ、自治は終わりました。その後、一向一揆は石山本願寺と信長の間で争い、続く石山合戦で終結しました。

戦国時代の東海、濃尾地方

東海・濃尾地方では、美濃国では土岐氏、尾張国と遠江国では斯波氏、三河国では松平氏、駿河国では今川氏が一国一円で支配していました。

美濃国では、土岐氏内部での争いが続いていました。斎藤利政(斎藤道三)はこの機会に主君である土岐頼芸に接近し、1542年には頼芸を追放して美濃国を手中に収めました。

その後、織田信秀や土岐頼芸、朝倉孝景が美濃に侵攻しましたが、籠城戦からの奇襲で織田軍に大きな損害を与えるなど、耐え抜きました。

後に斎藤道三は織田信秀の息子である織田信長と和睦しましたが、1555年に道三の子である斎藤義龍が挙兵し、1556年に長良川の戦いで道三は義龍に討たれました。

1561年には斎藤龍興が後を継ぎました。信長は美濃を攻略し、1567年に稲葉山城を岐阜城と改名して、新たな拠点としました。

尾張国では、朝倉氏の離反で力を失った斯波氏が本拠地となっていました。

斯波氏は朝倉氏との戦いで敗れ、さらに京都での政争でも敗れて力を失いました。

後に織田氏の傀儡となりました。1554年には斯波義統が自刃し、尾張守護の斯波氏は断絶し、以後は織田氏が尾張を治めました。信長は尾張国主の座を奪い、桶狭間の戦いに勝利した後、美濃攻略に専念しました。

駿河国では今川氏親が斯波氏から遠江の支配権を奪い、1526年には分国法を定めて領国支配力を高めていきました。

その後、今川義元の代には松平氏の三河も支配下に治めましたが、1560年の桶狭間の戦いで義元が戦死し、後継者の今川氏真が弱体化し、後に滅びました。

三河国では松平氏が松平清康の代で勢力を拡大しましたが、1535年の守山崩れで清康が殺されると、弱体化しました。

松平元康は幼少期に今川氏に人質として送られましたが、後に今川領国の混乱を利用して1565年に三河を平定し、徳川家康と改名して織田氏と同盟を結び、今川氏を滅ぼしました。

その後、武田信玄の西上作戦で三河領が侵食され、三方ヶ原の戦いで敗れるも、信玄の死で武田軍の西進が頓挫しました。

1575年の長篠の戦いで織田・徳川連合軍が武田軍を破ると、1582年の甲州征伐への参戦協力の功により、徳川氏は武田領の遠江、駿河を得ました。

戦国時代の代表的な人物を紹介

戦国時代には、守護大名たちが在京していた室町時代とは異なり、彼らの多くは応仁・文明の乱後、地方に滞在するようになりました。

しかし、長享・延徳年間の六角征伐(鈎の陣)では多くの大名が集結し、武家秩序は将軍を頂点として維持されました。

1493年の足利義稙による河内親征中、細川政元がクーデターを起こし、義澄を新たな将軍に擁立しました。

幽閉された義稙は後に北陸へ逃亡し、義稙派と義澄派の抗争が始まりました。この抗争の中で、地方に逃れた将軍や前将軍が地方の政治に影響を与え、畿内と地方の政治抗争が相互に影響し合うことになりました。

戦国時代においても、戦国大名たちが足利将軍に忠誠を示したのは、栄転や名誉を求める強い欲望があったからです。

彼らは自らを全国的な武家秩序の中に位置づけることが必要であり、その構成が変わっても、将軍を中心とする権威秩序は維持され続けました。1565年、足利義輝が政変で討死した際、朝廷や大名、庶民まで全国から追悼の意が表されました。戦国時代末期においても、将軍は依然として「天下諸侍之御主」でした。

細川氏

戦国時代において、細川氏は室町幕府内で三管領の一つとして活躍しました。

斯波氏や畠山氏と共に幕府内で重要な役割を果たしていましたが、室町後期になると、細川氏は管領職をほぼ独占し、その地位を確立しました。

1492年、細川政元は足利義稙が河内国に遠征している間にクーデターを起こし、若年の足利義澄を新たな将軍に据えて幕政を主導しました。

しかし、1507年には後継者争いが絡んで政元が暗殺され、細川家も分裂し、高国派と澄元派の抗争が始まりました。

この抗争の中で、阿波の細川氏の一派である三好氏が政権内で台頭していきました。

和泉国では、室町時代から和泉細川氏の上守護・下守護家が支配してきましたが、義稙が京都に戻った後は、高国流の細川高基・細川勝基と、政長流畠山尚順の子である細川晴宣によって両守護が統治されました。

その後、大物崩れ後の時期には細川元常とその息子である細川晴貞による単独の守護制へ移行しました。

しかし、その頃から守護代の松浦守が台頭し、晴元が近江国へ逃亡すると、細川元常も連座して没落しました。以後、松浦氏が三好氏と連携しながら和泉国を統治するようになりました。

三好氏

戦国時代における三好氏の活動は、阿波国守護・細川成之の一員として、応仁・文明の乱時に始まります。

その後、永正3年(1506年)に細川京兆家の後継者である細川澄元の先陣として上洛した三好之長は、中央政界での活動を開始しました。

三好氏はその後、之長の嫡男である元長や庶流の政長が澄元・晴元派の主力として畿内で活躍し、天文年間には元長の嫡男である長慶が三好家の家督を継承しました。

長慶は政長と共に晴元派の有力武将として活躍しましたが、天文17年(1548年)に政長との間で対立が表面化しました。

これにより、晴元と政長の対立が激化し、長慶は細川氏綱陣営に参加することとなり、江口の戦いで政長を討ち取りました。

この結果、晴元は義輝や義晴と共に近江国に出奔し、三好氏が中央政権を単独で担うことになりました。

永禄元年(1558年)には足利義輝と和睦し、三好氏は全盛期を迎えました。

畿内では宗家の長慶と義興が、阿波では三好氏がそれぞれ統治し、堺や河内十七箇所などの重要地域を支配しました。

しかし、一族の死亡が相次ぎました。永禄7年(1564年)には長慶も亡くなり、三好義継と三好三人衆が政権を引き継ぎましたが、その後、義輝の帰還後に幕府内で勢力を伸ばしていた松永久秀との抗争が始まりました。

義継も後に三人衆から離反し、久秀と協力しました。義昭と信長が上洛すると、義継は河内国の半国守護に補任されました。

松永氏

戦国時代の松永氏は、天文18年(1549年)の江口の戦い以降、三好政権の中で台頭しました。

永禄3年(1560年)には幕府御供衆に就任し、同時期に朝廷から従四位下補任を受け、将軍から桐紋を拝領するなど、三好本宗家に匹敵するほどの家格を上げ、幕府内で重要な地位を築きました。

永禄の政変後は三好三人衆と対立しましたが、永禄11年(1568年)に上洛した足利義昭に従順し、大和国の領有が認められました。

松永久秀の弟である松永長頼も、細川晴元との対立の中で、三好政権下で軍事的な存在感を増していきました。

天文19年(1550年)から20年(1551年)にかけて近江国に出兵し、天文22年(1553年)からの丹波国攻略戦では主力として活躍しました。

永禄2年(1559年)には八上城を接収し、永禄3年(1560年)には若狭国への侵攻を試みましたが、永禄4年(1561年)に武田義統・朝倉景紀連合軍に敗れました。

その後、丹波国内の経営が不安定化し、永禄8年(1565年)8月には荻野直正との合戦で討死しました。

畠山氏

戦国時代の畠山氏は、応仁・文明の乱以前から義就流と政長流に分かれて抗争していました。

明応の政変では政長が敗死しましたが、その息子の尚順は紀伊国に逃れて細川政元や義就流畠山氏と戦いました。

尚順は永正元年(1504年)に義就流の畠山義英と和解し、政権に復帰しましたが、その後義英との和睦は破綻しました。

天文年間には畠山氏の権力が動揺し、河内国は木沢長政と遊佐長教が半国守護体制で統治していました。

長政の敗死後、政長流の畠山稙長が和解して河内国の実権を掌握しましたが、稙長が出奔した後、長教が名実ともに河内国の実権を握りました。

畠山政国が出奔した後、長教が名実ともに河内国の実権を握りました。

そして、細川晴元の没落に伴い、義就流の畠山在氏も没落し、畠山氏の権力が動揺しました。

天文20年(1551年)に長教は畠山氏被官の萱振賢継に暗殺され、代わって安見宗房が台頭しました。

永禄年間には三好氏との抗争に敗れ、畠山高政と宗房は河内国から追放されましたが、足利義昭と織田信長の上洛後、高政は三好義継と共に河内国の守護に任ぜられました。

しかし、元亀4年(1573年)6月には信長と義昭の対立が畠山氏にも波及し、畠山秋高が殺害され、畠山氏の守護大名としての歴史は終焉を迎えました。

戦国時代における守護大名らの多くは畠山氏のように、在地から台頭し、実権を握った守護代もまた被官人に権力を奪われていきました。

しかし、守護は守護代によって擁立され、守護代は被官によって擁立される政治秩序は変わらず、守護‐守護代の家格は維持され続けました。

六角氏・京極氏・浅井氏

戦国時代における六角氏、京極氏、そして浅井氏は、それぞれ南近江、湖北、北近江で活躍した名族でした。

六角氏は宇多源氏佐々木氏に繋がる古くからの家柄であり、明応3年(1494年)には山内就綱を破り、再び近江国守護に返り咲きました。

一方、湖北では京極氏が坂田郡・浅井郡・伊香郡の分郡守護を務め、文明2年(1470年)以降、内訌が続きましたが、永正2年(1505年)に和睦が成立し、永正4年(1507年)に内訌は終結しました。

その後、京極氏は梅本坊の公事と呼ばれるクーデターによって没落し、六角氏に侵攻されました。一方、北近江では浅井亮政が京極氏から権限を移譲され、湖北を代表する領主となりました。

浅井氏は六角氏に従属していましたが、永禄3年(1560年)に浅井長政が六角義賢を破り、六角氏の干渉を排除しました。

六角氏はその後、観音寺騒動や足利義昭と織田信長の上洛戦に敗れ、大名の座から転落しました。

その一方で、浅井氏は織田氏と同盟関係にあり、信長に従って戦いましたが、天正元年(1573年)に信長に攻められ、久政と長政は自刃しました。こうして、三者のうち京極氏だけが戦国期の近江を生き残り、その後も織田政権下で復権し、豊臣・徳川期にも大名として存続しました。

山陽と山陰地方

山陽地方と山陰地方では、戦国時代初期に大内義興と尼子経久の間で対立がありました。

大内義興は勘合貿易を支配し、中国九州7ヶ国に勢力を拡大し、周辺諸大名を従えて上洛するなど、一時期は強力な勢力でした。

一方、尼子経久は月山富田城を奪って守護を追放し、山陰地方に勢力を築いていましたが、大内氏と何度か戦っても決着がつきませんでした。

両者の接点である安芸国では、国全体の国人が団結して惣を築いていましたが、毛利元就が戦国大名となりました。

元就は外交的には尼子氏と大内氏のバランスを保っていましたが、後に尼子氏を裏切り、大内氏に味方しました。

そして、大内義隆が陶晴賢の謀反(大寧寺の変)によって死亡すると、尼子晴久と陶氏が拮抗することになりましたが、陶晴賢が厳島の戦いで毛利元就に討たれ、大内氏も毛利氏に攻められて滅亡しました。

さらに、出雲国でも尼子晴久の急死によって尼子氏は衰退し、毛利氏に攻められ、月山富田城に篭城しましたが、兵糧攻めに遭い、開城しました。

これにより、毛利氏は中国地方の覇者となりました。毛利輝元は織田信長に追放された将軍・足利義昭を庇護し、信長の西国侵攻に対する最大の抵抗勢力となりました。

また、尼子氏再興を目指す山中幸盛が挙兵するも、これを退けました。

しかし、本能寺の変後、輝元は秀吉と和睦し、豊臣氏の配下となり、各地で活躍しました。1589年に輝元は広島城を築城し、その後、関ヶ原の戦いでは西軍の総大将を務め、戦後に周防、長門の2か国に封じられました。

四国地方

四国地方は戦国時代において、東四国(阿波・讃岐)は畿内に近いことから、細川氏の支配下にあり、しばしば畿内の政争に巻き込まれました。

しかし、周囲には敵がおらず、長宗我部氏による四国統一戦まで、領主の構成はほぼ変わりませんでした。

阿波では細川氏が支配していました。

後に、撫養の三好氏が実質的な支配権を握りましたが、細川氏は江戸時代まで阿波屋形として存続しました。

戦国時代には勝瑞城が阿波の統治拠点となりました。

讃岐では、東讃岐は守護代の安富氏が支配していましたが、後に三好氏一族の十河氏が勢力を拡大し、東讃岐を総括しました。

西讃岐は守護代の香川氏が毛利氏などと結びつき、後に三好氏の支配下に入りました。

伊予では、河野氏が中予を、伊予宇都宮氏が大洲一帯を、伊予西園寺氏が南予を支配していました。

土佐の守護は細川氏でしたが、土佐七雄と呼ばれる豪族が土佐中央部に勢力を持ち、一条氏を盟主として行動しました。

一条氏は土佐政治に大きく関与しました。後に、長宗我部国親・長宗我部元親が土佐を統一し、四国を統一しました。淡路は守護・細川氏が統治していました。

秀吉の四国攻めの後、長宗我部氏は土佐一国に追い込まれました。秀吉は阿波に蜂須賀家政、讃岐に仙石秀久、伊予に小早川隆景を任命しました。

九州地方

九州の武家は主に平家方であり、鎌倉幕府を開いた源頼朝には信頼されていませんでした。

頼朝は九州の制圧のために、無名に近い近臣として少弐氏、大友氏、島津氏を九州の守護として任命しました。

この時代、筑前・肥前・豊前は少弐(武藤)氏、筑後・肥後・豊後は大友氏、薩摩・大隅・日向が島津氏の支配下にあり、その下には元平家方の武家である松浦氏、秋月氏、蒲池氏、菊池氏などが地頭として存在していました。

戦国時代初期、少弐、大友、島津の三氏は各地の権益を守るために戦いました。

しかし、少弐氏は九州探題に反抗し、室町時代後期には既に衰えていました。この時期、筑前・豊前の国人は大内氏の影響を受け、肥前・対馬の少弐氏は大内氏との戦いで滅ぼされました。

大内氏の滅亡後、肥後や筑前には大友氏の影響が及び、毛利氏と大友氏は北筑前で戦いました。

大友氏は豊後を拠点にし、筑後十五城を統治し、さらに阿蘇氏や相良氏の肥後に進出しました。大友氏はまたキリスト教を保護し、南蛮貿易を盛んに行いましたが、耳川の戦いで大敗し、急速に衰退しました。

肥前では龍造寺氏が勢力を拡大し、龍造寺隆信の時代には一時的に大友・島津と肩を並べるほどになりましたが、隆信の死後は急速に衰え、鍋島直茂が主導権を握りました。

島津氏は一族内の争いから始まりましたが、島津貴久の指導の下、薩摩・大隅を統一し、後に島津義久の下で薩摩・大隅・日向を統一し、九州統一戦を開始しました。豊臣秀吉の介入により降伏するまで、九州の統一を目指し戦い続けました。

戦国時代の社会と文化

経済と社会

中世の日本では、生産力に基づいて畿内近国地域・中間地域・辺境地域の3つの地域に分けられました。

中世の日本列島では、米と麦の二毛作が一般的であり、15世紀には畿内では三毛作も行われていました。

特に畿内や西日本で二毛作が盛んであり、東日本ではほとんど行われていませんでした。

麦は米とは異なり、非課税で農民が収穫したものを全て所有できました。そのため、農民にとって二毛作は重要な生計手段でした。

中世の日本の農業生産は、二毛作の普及とともに用水や土地改良の整備によって発展しました。

戦国時代には戦乱の影響もあり、人や物の流通が活発化し、貨幣の価値が高まりました。

戦国時代初期には、明との貿易や南蛮貿易によって大量の銅銭が導入され、貨幣経済が確立されました。

また、ヨーロッパからの来航により金銀の輸出入が増加しました。

金銀の採掘も経済発展に貢献し、特に石見銀山などの金山・銀山の運営が重要視されました。

この時期には金銀の精製技術の向上や新しい技術の導入も行われました。また、金山・銀山を保護するための城砦も築かれ、戦国大名同士の争いが勃発しました。

1568年に織田信長が上洛すると、従来の商業組織を排除し、自由な市場取引を奨励する楽市・楽座が推進されました。

豊臣政権でも楽市・楽座が全国的に推し進められました。市場取引の活発化に伴い、領国貨幣から統一貨幣への移行も進みました。

一方、農村部では荘園が戦国大名や国人領主によって押領され、荘園制度が解体されました。

しかし、徴税体制は名体制や職の体系を残しつつ、大名主導での負担の平均化が進みました。

また、土地に対する借地が盛んになり、大規模な新田開発や灌漑整備が行われました。さらに、米以外の特産物の生産も盛んになりました。

商業中心地としては、堺や博多などが栄えました。水運が主要な交通手段であり、東南アジア地域との交易も盛んでした。特に堺は自治を行い、戦国大名の支配を拒絶していました。

戦術の変化に伴い、武器や甲冑の需要が増加し、大量生産が行われるようになりました。

火器の導入により、従来の戦争物資に加えて大量消費型の品々が必要とされ、ロジスティクスの重要性が高まりました。戦国大名の兵站を請け負う商人も登場しました。

戦国時代には、戦闘以上に略奪行為に熱中した雑兵たちが存在しました。

農民から徴用された足軽たちは、手柄を立てなければ報酬を得られず、大名も彼らの士気を維持するために乱取りを黙認または推奨しました。

奴隷狩りや略奪は各地で行われ、キリスト教宣教師を通じて海外に売り払われる人々もいました。豊臣秀吉はキリスト教を禁じるなど対策を取りました。

文化

戦国時代初期の文化は、禅宗などの影響を受けており、北山文化や東山文化と同様に発展しました。戦国時代の下克上の雰囲気は文化にも反映され、次第に豪壮な桃山文化への移行の布石となりました。

特に、千利休による茶の湯の発展は注目されます。これは禅の「わび・さび」の美意識と豊臣秀吉の提案が組み合わさり、「金の茶室」という極端な豪華さを持つもので、現代の日本文化にも大きな影響を与えています。

戦国時代に活躍した画家には、雪舟等楊や雪村周継、土佐光信などがいます。また、武将が文芸や絵画を楽しむようになり、今日でも美術的に評価される作品を残した人物もいます。

文化の担い手として、天皇や公家も重要な役割を果たしました。彼らは戦乱の時代においても文化の伝承を続け、戦争を避けて地方に移住することもありました。

武家も文化振興に貢献しました。これは、文化を取り入れて自らの名声を高める一方で、不安定な時代に文化によって心を慰めようとする動きでもありました。大名が京都の貴族を招いて地方を文化の中心にしようとした例もあります。

宗教面では、厭世的な気分から生まれた日蓮宗や浄土真宗が広まりました。また、キリスト教も伝来し広まっていきました。

戦国時代には、天道思想が広まり、「天運」を司るものとして認識され、神道・仏教・儒教が結合し、「諸宗はひとつ」という考え方が広がりました。これは、大名や武士だけでなく、一般の庶民にも受け入れられ、日本社会全体に浸透していきました。

まとめ

戦国時代は、日本の歴史において戦乱と政治の動乱が激しく、戦国大名たちが権力を争った時代です。以下に、戦国時代の特徴や要点を紹介します。

時代背景

戦国時代は、室町時代後期から安土桃山時代の中ごろ(約1467年から約1603年)にかけての時代です。

室町幕府の衰退や守護大名の力の強まり、農民や商人の台頭などがこの時代の特徴です。

戦乱と合戦

時代の特徴として、多くの戦国大名が互いに領土や権力をめぐって争いました。

合戦や戦乱が日常的で、戦国大名や武将たちは領土拡大や政治的影響力の確保のために戦いました。

有名な合戦としては、桶狭間の戦いや長篠の戦い、賤ヶ岳の戦いなどがあります。

戦国大名の台頭

戦国時代には、各地で力を持った戦国大名が台頭しました。その中には、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康などがいます。

これらの戦国大名たちは、領土拡大や国内統一を目指して活動し、日本の歴史に大きな影響を与えました。

文化の発展

戦国時代には、茶の湯や武芸など、独自の文化が発展しました。

織田信長や豊臣秀吉などの戦国大名たちも文化の後援者として知られています。

外交と交流

戦国時代には、朝鮮や中国との外交関係や交流がありました。また、キリスト教の布教も始まりました。

終焉と安土桃山時代

戦国時代は、豊臣秀吉による日本統一(天下統一)によって終わりを迎えます。

安土桃山時代は、秀吉の統治の下で始まり、徳川家康による江戸幕府の成立によって終わりました。

戦国時代は、日本の歴史において非常に重要な時代であり、多くの武将や戦国大名たちの活躍、文化の発展、そして政治的・社会的な変化が見られる時代でした。

最新情報をチェックしよう!