土偶とは、縄文時代に使われた、土で作られた人や動物の形をした物です。
現在、北海道から九州まで約15,000点が見つかっており、最も古いものは三重県で見つかりました。
大きさは小さいものから40cm以上のものまでさまざまです。東日本では板状や小型のものが流行し、時代によって形や種類が変わっていきました。
手や足が欠けていたり、女性の姿が多いですが、具体的な用途ははっきりしていません。
一方、埴輪は古墳に並べるための焼き物です。
円筒状や人物などの形があります。円筒埴輪は元々壺を置くためのもので、朝顔形などがあります。形象埴輪には家の形、器財、動物、人物などがあります。
古墳の上や周囲に置かれ、初めは生前の様子や権威を示すものでしたが、後に葬儀の様子を表すようになりました。
以上のように、土偶と埴輪は時代や目的が異なる別のものです。
土偶が女性の形をしているのが多いのはなんのため?
現在、出土した2万点の土偶のうち、完全な形で見つかったものはほぼ5%に満たないと言われています。
そして、興味深いのは、経年劣化や圧力によって壊れたのではなく、意図的に壊された後に埋められたと考えられることです。
時には完全にバラバラにされ、それぞれが別々の場所に埋められることもあります。
では、壊れる土偶と壊れない土偶、あるいは部分的に壊れる土偶と完全にバラバラにされる土偶は、用途が異なったのでしょうか?
多くの土偶は女性を象徴する形をしており、乳房やくびれがあります。臀部や腹部が膨らんでいる土偶もあり、妊娠した女性の特徴が表現されています。
最古の土偶は、BC11,000年頃のものでありながら、顔や手足の表現がないにも関わらず、女性の形がはっきりとしています。
土偶は始まりから終わりまで、女性性が重要視されていました。一方、後期・晩期の土偶には、性別不明のものも存在します。
そのため、縄文時代の土偶のほとんどが女性像であると考えられています。土偶は、女性の神秘と力、豊穣や出産を祈るために使用されたと考えられています。
土偶は、手や足が欠けることが多く、女性の特徴が強調されています。
これから、出産や豊穣、再生を象徴していると考えられています。
安産や子孫繁栄、自然の恵みを願い、感謝するために使われたのではないでしょうか。下腹部の膨らみや乳房の表現から、様々な解釈がされています。
土偶の種類を紹介
遮光器土偶
遮光器土偶は、縄文時代に作られた土偶の一種です。
通常、「土偶」と聞くと、このタイプのものを指すことが一般的です。
その名前は、目の部分がイヌイットやエスキモーが雪中で使用する遮光器(スノーゴーグル)に似ていることからきています(ただし、遮光器の形を模倣したものではなく、目の誇張表現とされています)。
遮光器土偶は主に東北地方から見つかり、縄文時代後期のものが多いです。
一方、このスタイルを模倣した土偶は、北海道南部から関東・中部地方、そして近畿地方にまで広がっています。
特徴は、遮光器状の目に加えて、大きな臀部、乳房、太ももなど、女性的な特徴を備えています。また、胴部には紋様が施され、朱色などで彩色されたものもあります。
大型のものは中が空洞になっていることが多く、これは焼く際にひび割れを防ぐための措置と考えられています。
完全な状態で見つかることはまれで、足や腕などの一部が欠けたり、切断された状態で見つかることが一般的です。
これは多産や豊穣を祈る儀式で、土偶の一部が切り取られた可能性が考えられています。また、切断面にはアスファルトが接着剤として使用されていることが多く、切り取られた部分が修理され、再利用されたと推測されています。
立像土偶
縄文時代中期初頭に入ると、土偶は立体的な形状に進化し、頭部や四肢の表現がはっきりとし、土偶自体が立って存在できるようになりました。
この進化は、縄文時代全体を通して最も顕著なものでした。
しかし、この変化は突然ではなく、前期後半には表情豊かな土偶が既に登場していました。
その中でもっとも古いものは、千葉県の石揚遺跡から見つかったもので、扁平で円形の頭部に2〜6個の丸い穴が開けられています。
同様の表情豊かな土偶は東海地方から関東地方に広がり、当時の地域を超えて広く分布していました。しかし、前期末葉になると、新しい変化が東北地方で始まりました。
前期後葉の糠塚貝塚から始まり、土偶は両眼や口の表現を獲得していきました。
それ以降、東北地方中部の土偶から顔の表現が次第にはっきりとし、北陸地方や中部高地に広がり、中期初頭には「立像土偶」へと進化しました。
胴部は板状で、頭部は円盤状で、正面には目・鼻・口が付けられています。これらの土偶は短期間で立体化され、自立できる立像が完成しました。
長野県の棚畑遺跡から出土した「縄文のビーナス」はその典型例です。この急速な変化は、それまでの土偶が個人レベルの目的に使われていたのに対し、この時期からは村落共同体レベルの祭祀にも使用されるようになったためだと考えられています。
つまり、土偶はこの中期前葉において縄文社会に定着したとされています。
縄文時代後期に入ると、ハート形土偶が出現しました。
関東から東北地方では山形土偶やみみずく土偶、遮光器土偶などが大量に作られました。
また、仮面をかぶった土偶(仮面土偶)なども見られます。九州を除く西日本では、人型土偶はまれで、簡略な分銅形土偶などがよく見られました。
縄文のビーナス
縄文のビーナスと呼ばれるこの土偶は、縄文時代中期に制作されたものです。
妊婦の姿をしており、高さは27センチメートルで、重さは2.14キログラムです。
土偶には細かい雲母片が混ざっており、そのため肌が微かに輝いて見えます。
雲母片が混ざった土偶は少なく、他の土偶が一部が破壊されているのに対し、この縄文のビーナスはほぼ完全な形で発見されたことが珍しいです。
国宝に指定されています。
この土偶は、茅野市尖石縄文考古館に所蔵されています。同じく国宝に指定された中ッ原遺跡の仮面の女神も同館に所蔵されています。
1986年9月8日に長野県茅野市米沢の八ヶ岳山麓に位置する棚畑遺跡から発見されました。最初は「棚畑姫」と呼ばれていました。
土偶は環状集落の中央広場の土坑に横たわる形で埋められており、ほぼ完全な状態で発見されました。
1989年6月12日に重要文化財に指定され、1995年6月15日に縄文時代の遺跡から発見されたものの中で初めて国宝に指定されました。
合掌土偶
八戸市風張遺跡から発見された土偶は、縄文時代後期後半に作られたものです。
その中でも特に注目されるのが、愛称で「合掌土偶」と呼ばれるものです。この土偶は、1997年に重要文化財として指定され、2009年に国宝に指定されました。
この合掌土偶は、縄文時代の土器や石器などとともに一括して指定されたもので、八戸市が所有しています。
寸法は高さ19.8cm、幅14.2cm、奥行15.2cmで、約3500年前のものです。特筆すべきは、足や腰の割れ目に天然アスファルトが塗られており、修復しながら使用されていた痕跡があることです。
縄文の女神
山形県舟形町の西ノ前遺跡から見つかった縄文時代中期の土偶が、通称「縄文の女神」と呼ばれる国宝に指定されたものです。
この土偶は高さ45センチメートルで、淡い赤褐色をしています。
縄文時代の人の姿が極めてリアルに再現されており、他の土偶が壊れている中、完全な状態で見つかったため、日本国内では稀少とされています。
西ノ前遺跡は1986年に発見され、1992年には尾花沢新庄道路の建設ルート内で発掘調査が行われました。
その中から、直径約2.5メートルの地下から土偶の残骸が見つかり、後に復元されました。
この美しい土偶は八頭身で均整がとれており、「縄文の女神」と称されるようになりました。他にも47点の土偶の残骸が出土し、これらも国宝の一部として指定されました。
この土偶は1998年に国の重要文化財に指定され、2012年に国宝に昇格しました。
山形県立博物館に保管され、舟形町歴史民俗資料館にはレプリカが展示されています。また、2009年にはイギリスの大英博物館で開催された土偶展にも出展されました。
まとめ
土偶は、日本の古代文化である縄文時代に作られた土製の人物や動物の形をした彫刻です。
時代と範囲
縄文時代(約1万年前から約2,300年前)に作られました。
主に日本列島全体で作られ、北は北海道から南は九州まで広がっています。
種類
立体的な土偶:縄文時代中期になると、立体的な土偶が作られるようになりました。これは、頭部や四肢の表現が明確化し、自立できるようになったものです。
合掌土偶:手を合わせたような形をしている土偶で、山形県などで発見されています。
縄文の女神:縄文時代中期に製作された土偶で、特に西ノ前遺跡から見つかったものが知られています。
機能と用途
生活に密接に関わる存在であり、祭祀や儀式に使用された可能性があります。
豊穣や出産などの祈願のために使用されたと考えられています。
土偶には女性像が多く、妊婦や乳房を表現したものもあり、出産や豊穣に関連する儀式での使用が想定されています。
発見と保管
土偶は主に遺跡や墓から発見されます。
発見された土偶の多くは修復や保存の対象となり、博物館や文化施設で展示されています。
文化的意義
土偶は縄文時代の人々の生活や信仰を知る上で重要な遺物です。
彫刻や陶芸の技術の発展を示すものとしても評価されています。
土偶は、日本の古代文化や信仰の一端を伝える貴重な遺産であり、研究や保存が重要視されています。