平安時代はどんな時代だったのか?

平安時代は、日本の歴史の一部で、794年に桓武天皇が平安京に都を移すことから始まり、約390年間続いた時代です。

この時期、平安京は政治上の中心地であり、鎌倉幕府が成立するまでの間、ほぼ唯一の中心地でした。

一般的には784年の長岡京遷都からの約400年間を指します。

この時代は古代の末期と位置づけられていますが、中世の萌芽期とも見なされ、古代から中世への過渡期として理解されています。

最近では、院政期に荘園公領制が確立し、これを中世初期とする見解もあります。

また、平安中期以降を中世の始まりとする意見もあります。このように、平安時代が古代か中世かは議論があり、中立的な「中古」という用語が使用されることもあります。

平安時代の前半では、律令政治が続きましたが、藤原氏による荘園の拡大により、律令制と現実の乖離が広がりました。

政府は税収確保のため、人別支配体制から土地課税の支配体制に転換しました。

これにより、現地赴任の筆頭国司が権限を委譲され、新しい支配体制である王朝国家体制が構築されました。

王朝国家体制の確立により、朝廷は地方統治を放棄し、地方は治安が悪化しました。

国家から権限を委譲された有力百姓層は武士に成長し、国家権限の委譲により中央政界では家業が世襲されるようになりました。

摂関家が確立し、中流貴族の階層が形成されました。

11世紀後半からは、上皇が政務に当たる院政が始まりました。

院政期には荘園の集積と国衙領の単位化が進み、荘園公領制へ移行しました。

12世紀中頃には貴族社会内の紛争が武力で解決され、武士の地位が上昇しました。

最初の武家政権である平氏政権が登場しましたが、社会矛盾を引き受けたため、内乱により崩壊しました。その後、鎌倉幕府が登場し、平安時代は終わりを迎えました。

平安時代の年表一覧

784年 – 長岡京の建設が開始される。

785年 – 藤原種継が暗殺され、皇太子早良親王が廃位される。

787年 – 長岡京への遷都が行われる。

794年 – 長岡京が廃止され、平安京に遷都する。

805年 – 最澄が比叡山延暦寺を創建する。

806年 – 空海が高野山金剛峯寺を創建する。

807年 – 伊予親王の事件が起こる。

810年 – 薬子の事件が起こる。

842年 – 承和の事件が起こる。

858年 – 藤原良房が人臣初の摂政となり、摂関政治が始まる。

866年 – 応天門の事件が起こる。

869年 – 貞観地震が発生し、甚大な津波被害が陸奥国などで起こる。

880年 – 藤原基経が関白となる。

887年 – 阿衡事件と仁和地震が起こる。

894年 – 唐船の派遣が廃止される。

901年 – 昌泰の事件が起こる。

902年 – 延喜の荘園整理令が出される。

927年 – 延喜式が成立する。

939年 – 出羽で俘囚が反乱を起こし、天慶の乱が勃発する。

940年 – 平将門が敗死する。

941年 – 藤原純友が敗死する。

967年 – 延喜式が施行される。

969年 – 安和の事件が起こる。

995年 – 京都で天然痘が流行する。

996年 – 長徳の事件が起こる。

999年 – 富士山が噴火し、内裏が消失する。

1016年 – 藤原道長が摂政に就任する。

1019年 – 刀伊の入寇が発生する。

1028年 – 平忠常の乱が起こる。

1031年 – 平忠常が源頼信に降服する。

1051年 – 前九年の役が始まる。

1052年 – 末法の第一年が迎えられる。

1062年 – 安倍貞任が敗死し、前九年の役が終結する。

1068年 – 後三条天皇が即位し、摂関時代が終わる。

1072年 – 延久宣旨枡が制定される。

1083年 – 後三年の役が始まる。

1086年 – 白河天皇が上皇となり、院政が開始される。

1087年 – 後三年の役が終わる。

1108年 – 平正盛が源義親を追討する(源義親の乱が発生)。

1111年 – 記録荘園券契所が設置される。

1129年 – 白河法皇が崩御し、鳥羽上皇による院政が始まる。

1156年 – 鳥羽法皇が崩御し、保元の乱が勃発し後白河天皇方が勝利する。

1159年 – 平治の乱が勃発する。

1167年 – 平清盛が太政大臣となる(平氏政権の始まり)。

1177年 – 鹿ケ谷の陰謀が発生する。

1179年 – 平清盛が後白河法皇を鳥羽殿に幽閉する。

1180年 – 以仁王の挙兵、源頼朝、源義仲らが相次いで挙兵する(治承・寿永の乱が始まる)。

1181年 – 後白河法皇院政が再開され、養和の飢饉が発生する。

1184年 – 平家が壇ノ浦の戦いで滅亡する(治承・寿永の乱が終結する)。

1189年 – 奥州合戦により奥州藤原氏が滅亡する。

1190年 – 源頼朝が上洛し、権大納言・右近衛大将となる。

1192年 – 後白河法皇が崩御し、源頼朝が征夷大将軍となる。

以上が平安時代の主な出来事の年表一覧です。

平安時代の主な出来事を紹介

平安時代前期

平安時代は、飛鳥時代の律令制の影響から、二官八省という行政組織が設立され、四等官制が確立された。

特に陰陽寮では、陰陽道に基づく呪術を行う役職が存在した。

暦に関しては、初めは大衍暦や五紀暦が使用されていたが、862年以降は宣明暦が採用された。貨幣に関しては、和同開珎や皇朝十二銭が流通していたが、平安時代末期には貨幣の信用が低下し、代用貨幣として米や絹、布が用いられるようになった。

平安時代の前半期には、称徳天皇が崩御し、光仁天皇が即位した。

この時期は、天武系の皇族と天智系の皇族の政争が続き、光仁天皇が即位した。

その後、桓武天皇が即位し、律令制の再編成を進め、平城京から長岡京、そして平安京への遷都を行った。この遷都は、旧弊の一掃と天皇の権威の高揚を目指したものであり、桓武天皇の強力な統治によって実現された。

桓武天皇の治世では、天皇が直接政治を行う時代であり、太政官の筆頭官も皇族が務めた。

また、律令制の再建が進められ、令外官が設置された。桓武天皇は東北地方の蝦夷征服にも力を注ぎ、征夷大将軍として坂上田村麻呂を任命した。

天武系の教訓を踏まえて、桓武天皇は多くの皇子をもうけ、皇位継承を図った。

その後も、平城天皇や嵯峨天皇の時代には政治的な対立があり、薬子の変などの事件が起こった。しかし、中央の政治抗争は武力を伴わず、死刑も執行されない非武力的な政治の時代が続いた。

嵯峨天皇治世初期には、藤原園人の指導のもとで百姓撫民政策が取られたが、その後藤原冬嗣の台頭により墾田開発が促進された。

冬嗣は土地課税を重視し、権門有利を志向した政策を展開し、弘仁格式の編纂・施行など多くの法令改革が行われた。

摂関政治の始まりは、858年(天安2年)に藤原良房が摂関として就任し、初期の摂関政治が始まりました。良房は父である藤原冬嗣の政策を引き継ぎ、土地開墾を奨励する政策を採用しました。当時、百姓たちの逃亡や浮浪が頻発し、税収に危機が迫っていました。冬嗣と良房は土地開発を進め、土地に課税することでこの状況に対処しようとしました。また、良房は政治の集中化も進め、その中で応天門の変(866年)が発生しました。この事件は、藤原氏による他の氏族の排除と解釈されることが一般的です。良房の統治期間中は政治が安定し、開発奨励政策や貞観格式の編纂などにより、貞観の治と呼ばれる時代となりました。

良房の養子である藤原基経も、良房の政策を引き継ぎ、土地課税を重視した政策を採用しました。基経の統治期に特徴的だったのは、元慶官田の設置でした。これまで中央行政の経費は地方からの調達に依存していましたが、基経は畿内に官田を設けてその収益を行政経費に充てることを決定しました。

仁和3年(887年)に即位した宇多天皇は、基経の死後、天皇主導の政治を展開しました。これまでの政策が権門に有利だったのに対し、宇多天皇は権門を抑制し、小農民を保護する政策を進めました。宇多天皇の時代には、藤原時平と菅原道真が太政官筆頭として天皇を補佐し、寛平の治と称されました。宇多天皇が譲位すると、時平と道真の対立が深まり、道真が失脚することとなりました(901年、昌泰の変)。

権力を握った時平は宇多天皇の路線を引き継ぎ、権門の抑制と小農民の保護を続けました。これまでの路線は律令制に回帰することを志向しており、時平の統治期には延喜2年(902年)に発布された班田励行令がその象徴となりました。この時期に編纂された延喜格式は、後の時代において理想的な政治とされ、延喜の治と呼ばれることとなりました。

平安時代中期

平安時代の中期には、藤原忠平が太政官の首班となりました。

忠平は律令制に戻ることを嫌い、土地の課税政策を進めました。

彼の統治時代には、有力な百姓階級(富豪層)に土地経営と納税を委託する名体制または負名体制が始まり、この時期は律令国家体制から新しい国家体制である王朝国家体制への移行期と考えられています。

通説では、忠平の時代が摂関政治の成立期とされています。

それ以前の摂関政治は藤原北家が摂政や関白として政治を行っていましたが、それは摂関政治の初期段階であり、忠平以降は摂関が朝政の中心として確立し、摂関の地位は忠平の子孫に限定されるようになりました。

ただし、摂関政治でも全ての決定権を摂関が持っていたわけではなく、政治決定のほとんどは議政官で行われていました。

桓武天皇が軍団制を廃止した結果、朝廷の治安が損なわれ、地方の治安が悪化し、日本列島は無政府状態に陥りました。

特に、9世紀ごろから関東地方を中心に、富豪層による税の強奪や群盗行為が増え始めました。

群盗の活動が活発化し、富豪層は自衛のために武装し、武士となりました。

彼らは中級または下級の貴族を取り込んで武士団を結成し、朝廷は地方の治安を武士団に委任することを余儀なくされました。

その後、寛平・延喜期には、勲功者が武士の原型となりました。彼らは自らも富豪として名田を経営し、また地方での調停者としての役割を果たしました。

しかし、彼らの間の対立や叛乱は、忠平執政期の天慶3年(940年)前後に承平天慶の乱として発生しました。

忠平の死後、10世紀中葉には村上天皇が親政を行い、これを天暦の治と呼び、延喜の治と並び称されました。

10世紀中葉から後期にかけて、官司請負制度が進展しました。

これは特定の家系に権限と義務を委任する制度で、その中では家業の専門教育を行い、弟子に家業を継がせることが行われました。

また、地方政治でも同様の動きがあり、地方の受領が大きな権限を持ち、富豪層からの徴税によって巨富を築きました。

この時期に荘園も拡大し始め、権門層は各地に私領を形成しました。富豪層は国衙に収公されないようにし、荘園整理令などの政策が実施されました。

平安時代後期

平安時代後期の政治・経済の歴史は、11世紀後半までに開発領主が出現しました。

彼らは、自分たちの領地を権門に寄付することで権利を確保しました。これが寄進地系荘園と呼ばれるものでした。

また、公領も再編成され、各地域に郡や郷、保、条などが整備されました。

荘園や公領は、特定の領主が独占的な支配権を持つのではなく、複数の権利者が重層的に関与する体制でした。

これらの権利は「職」と呼ばれ、職の体系を基盤として荘園公領制が成立しました。この体制が平安後期の政治・経済史に大きな影響を与えました。

11世紀中頃まで摂関政治が一定の機能を果たしていましたが、社会の変化に対応するための政治的主導権の欠如が明らかになり、摂関政治は機能不全に陥りました。

この後期に後三条天皇が登場し、天皇親政を行い、荘園整理などの課題に取り組みました。

その後、白河天皇も積極的な政治を展開し、院政が始まりました。院政では、皇室の政策を中流貴族や武士を通じて実行しました。この時期、東北地方も日本の領土に組み込まれました。

その後、鳥羽上皇が登場し、日宋貿易など経済的な支配力を強化しました。

12世紀に入ると、知行国制が広く実施され、荘園公領制の進展と連動しました。

しかし、鳥羽上皇の崩御後、政争が勃発し、内乱が起こりました。この内乱の結果、鎌倉幕府が勝利し、新たな時代が幕を開けました。これにより、平安時代は終わりを告げ、新たな時代が始まりました。

平安時代の文化と重要人物

平安時代の初期には、唐の文化が大きな影響を与えました。

桓武天皇は中国の皇帝を模倣し、中国の儀式を取り入れるなど、中国文化に強い関心を持っていました。

桓武天皇の時代には、新しい仏教である平安仏教が興り、日本における仏教の方向性を決定する役割を果たしました。

また、唐から帰国した最澄は天台宗を開き、空海は真言宗を創始しました。これらの仏教が日本の古来の信仰と融合し、神仏習合が起こりました。

嵯峨天皇から清和天皇にかけての時期には、漢文詩集や唐風の書が流行し、唐風の文化が栄えました。

この文化の時代を弘仁・貞観文化と呼びます。

しかし、唐風文化が沈静化すると、日本独自の文化が再び現れました。

これが平安中期の国風文化です。この時代には、女性が重要視され、平仮名や片仮名が発明され、日本語の表記が容易になりました。

また、和歌や貴族の生活を描いた文学が栄え、貴族文化が花開きました。さらに、仏教の末法思想が広まり、浄土思想や浄土教が興りました。

平安末期には、歴史物語や軍記物語などの文学が発展し、天台宗や山岳仏教が各地に広がりました。

また、民衆の間に今様という歌謡が流行し、後白河上皇によって今様が集成されました。この時代には、愛嬌のある鳥獣人物戯画も描かれました。

平安時代の対外関係

平安時代における対外関係は、複雑で多岐にわたるものでした。

まず、792年に桓武天皇が漢音奨励の勅を出し、漢音の学習を奨励しました。

これは、日本と中国の文化交流の一環であり、儒学や仏教などの学問を学ぶために漢音の知識が必要とされたことを示しています。

しかし、この政策により、一般の人々にはあまり普及せず、日本における漢字の読み方には呉音の影響が残りました。

一方で、日本では中国の陰陽思想や仏教の影響を受け、独自の陰陽道が形成されました。

これは、宮廷社会での御霊信仰の高まりや、陰陽道を通じて怨霊を回避するための指針となりました。

対外的には、唐との関係が重要でしたが、838年から50年以上遣唐使が中断され、894年には完全に廃止されました。

これは、唐が弱体化し、中国内部の政治情勢が不安定になったことが影響しています。

一方、日本と呉越(後の南唐)との関係は比較的良好で、935年に国交が開かれました。

藤原忠平やその他の公家たちが、呉越王との外交を担当し、文書や贈り物のやり取りが行われました。

中国では960年に北宋が建国され、中国統一の動きが進みました。

978年には呉越も北宋に吸収され、日本との貿易は日宋貿易となりました。

この時期には、日本での通貨が中国の宋銭に切り替わり、日宋貿易が拡大しました。

このように、平安時代の対外関係は、文化交流や外交活動、貿易などさまざまな要素が絡み合い、時代の流れに沿って変化していきました。

まとめ

平安時代は、794年から1185年までの約400年間にわたる日本の歴史時代です。

この時代は、桓武天皇が平城京から平安京に都を遷したことに始まり、源頼朝が鎌倉幕府を開いたことで終わります。

平安時代の政治と社会

平安時代は摂関政治が展開されました。摂関家や院政など、天皇や貴族たちによる政治体制が確立されました。

律令制度や国司制度が整備され、地方行政が強化されました。しかし、後期には貴族社会の分裂や武士の台頭などが見られ、政治の混乱も生じました。

平安時代の文化と芸術

平安時代は、文化や芸術の黄金時代とも言われます。和歌や説話、物語などの文学が栄え、『源氏物語』や『枕草子』など多くの名作が生まれました。

また、仏教や仏教美術も発展し、国宝級の寺院や仏像が建立されました。特に天台宗や真言宗が盛んになり、密教や修験道などが広まりました。

平安時代の経済と農業

平安時代には、農業が発展し、新田開発が進みました。農民たちは自由な経済活動を行い、町や市場が発展しました。

また、物々交換や貨幣経済も発展し、交易や商業が活発化しました。

平安時代の外交と国際関係

平安時代には、唐や宋、高麗などとの外交が盛んに行われました。日本は貿易や文化交流を通じて、アジア各地との交流を深めました。

平安時代の戦乱と武士

平安後期には、武士階級が台頭し、武士の武力が政治や社会に大きな影響を与えるようになりました。

治承・寿永の乱など、平安末期には内乱が頻発し、鎌倉幕府の成立に至りました。

総じて、平安時代は政治・文化・経済など多岐にわたる面で重要な変化や発展があり、日本の歴史においても特筆すべき時代とされています。

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