飛鳥時代はいつからいつまでを言うのか?

日本の古代史において、飛鳥時代は593年頃から始まり、710年に都が平城京へ遷都されるまでの期間を指します。この時代は飛鳥地域に宮都が置かれたことに由来して名付けられました。

当初は美術史の用語として使用されていた飛鳥時代ですが、後に歴史学にも広まりました。ただし、年代の区分は明確ではなく、特に始まりの時期は曖昧です。

仏教の伝来が最初の大きな変革であり、それに伴う派閥争いが起こりました。最終的には蘇我馬子が力をつけ、推古天皇の摂政として政権を掌握しました。

その後、聖徳太子による国作りが始まりましたが、蘇我氏の権力が台頭し、専横政治が目立つようになりました。しかし、中臣鎌足と中大兄皇子が蘇我氏を打倒し、新政権を樹立しました。

その後、中国の唐が朝鮮半島に侵攻し、倭国にも圧力をかけました。倭国は百済を救うために軍を派遣しましたが、白村江の戦いで大敗し、国難に直面しました。

中大兄皇子が即位して天智天皇となり、難局を切り抜けましたが、その後後継者争いが起こり、朝廷は分裂しました。大海人皇子が天武天皇として即位し、新しい政治体制を築きました。

天武天皇は律令制を導入し、国作りを進めましたが、志半ばで病死しました。その後、持統天皇が即位し、日本は法令国家へと変貌しました。

飛鳥時代はどんな時代だったの?

古墳時代では、大王と豪族が中央政権を牛耳っていましたが、6世紀に入ると、特定の豪族が力を蓄え始めました。その中でも蘇我氏が注目されます。

蘇我氏は、仏教を積極的に取り入れ、物部氏などと対立しながら地位を築いていきました。蘇我馬子は物部氏を打ち破り、蘇我氏の勢力を固めたため、一段と自由に行動するようになりました。

そんな中、蘇我氏に対抗する存在として現れたのが聖徳太子です。聖徳太子は、593年に推古天皇の摂政として中央集権国家の構築に乗り出しました。

摂政とは、幼い天皇や女性天皇の代わりに政治を行う役割です。聖徳太子は用明天皇の息子であり、推古天皇の甥でもありました。そのため、推古天皇から信頼されていました。

聖徳太子の登場により、蘇我氏から政治の中心が移りました。ただし、聖徳太子の死後、再び蘇我氏の圧力が高まり、重大な事件が起こる可能性も頭に入れておくべきです。

603年、新しい制度である冠位十二階が聖徳太子によって創設されました。

この冠位十二階は、有能な人々や功績のある者を政府の役人に任命するための制度です。聖徳太子は、天皇を中心とした中央政府を築くために、本当に実力のある人々を政府の重要な役職に任命することを目指してこの制度を導入しました。

これまでは氏姓制度と呼ばれる、豪族が代々特定の役職を継承する仕組みがあり、実力よりも名前や家系が重視されていました。しかし、聖徳太子はこの悪習を打破し、能力に基づいて人材を選別することで平等を実現しようとしました。この行動から、聖徳太子の優れたリーダーシップが窺えます。

冠位十二階は、人の地位を12段階に区分するために頭につける冠の色を用いるものです。この制度で最高位に位置するのは、後に遣隋使として知られる小野妹子でした。

604年、聖徳太子はさらに十七条の憲法を制定しました。

この憲法は、絶対的に守らなければならない法律ではなく、当時の政府の役人たちに対するルールや心構えを示したものです。17の規則が含まれており、「和をもって貴しとなし」といった内容があります。また、仏教の重要性や天皇の命令への従順さも強調されています。

この時期から、「大王」から「天皇」という呼称が一般化したとされています。

飛鳥時代の外交と文化の歴史

天皇を中心とした中央権力を強化していく聖徳太子は、607年に対等な外交関係を目指して、中国の隋に小野妹子を遣隋使として派遣します。

当時の中国は「中華思想」と呼ばれる考え方で、中国が世界の中心と見なされ、他の国は下位に位置づけられていました。

日本も例外ではなく、古墳時代には日本の王がみつぎ物を中国に送るなど、上下関係が存在していました。

しかし、聖徳太子はこの状況を変え、対等な立場で外交を進めることを決意します。

小野妹子には、「日出づるところの天子、書を日没するところの天子にいたす」という内容の手紙を持たせました。

この手紙からは、日本の王が中国の王に対して上位の位置にあるかのような印象を受けます。

隋の皇帝は怒りますが、隋は高句麗との戦いを控えており、日本との関係を穏やかに保つことを選択します。聖徳太子の外交努力は成功しました。

また、聖徳太子は仏教を信奉し、その教えを広めることにも熱心でした。それにより、飛鳥周辺地域で仏教文化が興り、「飛鳥文化」と呼ばれる国際色豊かな文化が生まれました。

この時代の文化は、中国だけでなく、インドやギリシャ、ペルシャなどからも影響を受けています。蘇我馬子や渡来人も多くの寺院を建立し、文化の発展に貢献しました。

中でも、聖徳太子が建立した法隆寺は有名です。法隆寺は世界で最も古い木造建築物の一つであり、ギリシャ建築の円柱であるエンタシスも特徴的です。また、法隆寺の金堂には「釈迦三尊像」という有名な仏像が納められています。

聖徳太子は国内の中央権力を強化するだけでなく、海外との外交関係を築き、日本の政治や文化を向上させた偉大な指導者でした。

飛鳥時代の文化

飛鳥文化という言葉には、政治・文化の中心であった飛鳥時代の文化と、7世紀前半の仏教を中心とした文化という2つの意味があります。

美術史上の「飛鳥文化」は、この時代に栄えた仏教文化を指し、後の時代に続く「白鳳文化」や「天平文化」とつながっています。

飛鳥時代は仏教文化が導入された時代であり、日本文化の基礎が築かれた時代でもありました。

飛鳥寺や法隆寺などの壮大な寺院が建立され、仏教建築や仏像製作などの荘厳な文化が生まれました。しかし、現在でも残る代表的な作品は限られており、多くは発掘調査によって新たに発見されています。

飛鳥文化の中心には、朝鮮半島からの渡来文化がありました。

仏教だけでなく、建築や彫刻、絵画、工芸などさまざまな技術や文化が導入されました。

特に百済からは、様々な文化要素が伝わりました。また、『万葉集』には飛鳥時代の歌謡が収められており、当時の人々の生活や感情がよく表現されています。

大化の改新の経緯と始めての年号

聖徳太子の死後、再び蘇我氏一族が勢力を拡大しました。彼らは山背大兄王の子供たちを含む一族を皆殺しにするなど、朝廷内で不正を働きました。

この状況に黙っていなかったのが、中大兄皇子と中臣鎌足でした。

彼らは密かに蘇我氏を打倒する計画を立てました。その計画は、彼らが当時行われていたボール遊びである蹴鞠の際に話し合われたとも言われています。

二人は蘇我入鹿を暗殺するための罠を仕掛けました。武器を持たずに彼を呼び出すために、偽の儀式の開催が天皇から伝えられました。

そして、蘇我入鹿が武装せずに現れた際、中大兄皇子自らが彼を切り殺しました。

これが「大化の改新」と呼ばれる出来事でした。それは西暦645年に起こりました。

古墳時代から中央で力を持ち続けてきた蘇我氏一族の没落により、日本は多くの改革を実行します。これらの改革は大化の改新として知られています。

日本で始めての年号は大化

日本の歴史において初めて年号が制定されました。それが「大化」です。

年号とは、「令和」や「平成」といったもので、現代では天皇が交代する際に変更されますが、当時は同じ天皇でも様々な理由で変更されていました。

そして、この時代に日本の政治を牽引したのが中大兄皇子です。彼は皇子の身分でありながら、聖徳太子のように政治を指導していきました。

その最初の一手として、都の所在地を飛鳥から現在の大阪にあたる難波に移し、「改新の布告」として知られるものを公表しました。

改新の布告の4つの要点は以下の通りです。

公地公民:これまで豪族が所有していた土地や人民は、すべて国と天皇の所有物であると宣言されました。

班田収授法:戸籍という個人の情報を正確に記録し、これをもとに人々に田んぼを割り当てる制度です。この田んぼの収穫は国への税として納める必要がありました。

租庸調制:お米の収穫量の3%を租として、特産物を納める庸、絹や綿などを調として納める制度です。この税制は中国の律令制を参考に作られました。

国郡里制:日本全国を国、郡、里に分け、それぞれに国司、郡司、里長を任命して地方政治を担当させる制度です。国司は都に住む貴族が、郡司は地方に住む豪族が任命されました。

大化の改新によって、日本は初めてしっかりとした法制度が整備されました。

その他の飛鳥時代での出来事壬申の乱と大宝律令

中国の唐と朝鮮半島の新羅が結託し、朝鮮半島の百済に攻め込んだ時、日本は663年に援軍を送っています。この戦いが白村江の戦いです。

日本は百済を支援したが、実は百済と新羅の争いに介入し、朝鮮半島南部を手中に収めようとしていました。しかし、唐・新羅の連合軍に敗れ、日本は撤退せざるを得ませんでした。

白村江の戦いに敗れた中大兄皇子は、都を現在の滋賀県にあたる近江に遷し、天智天皇として即位しました。彼は初の法令である「近江令」と戸籍制度の「庚午年籍」を制定しました。

天智天皇の死後、後継者を巡る争いが起きます。その中で壬申の乱が起こり、大海人皇子と大友皇子の間で激しい戦いが繰り広げられました。この壬申の乱は672年に発生し、必ず覚えておきましょう。

壬申の乱で大海人皇子が勝利し、天武天皇として即位し、都を飛鳥に戻します。彼は近江令に続き、日本初の律令である飛鳥浄御原令を制定しました。

その後、天武天皇の妃であった持統天皇が即位し、藤原京を建設しました。そして、701年には天武天皇の子である刑部親王を中心として、大宝律令が制定されました。これが日本初の律令国家の誕生です。

律とは刑罰を示し、令は国の制度や政治のルールを定めるものです。大宝律令はこれまでの日本の律令や唐の律令を参考にしてまとめられました。

また、都を平城京に移す前の710年には、和同開珎という銅貨が製造されました。この貨幣は富本銭が発見されるまで、日本最古の貨幣とされています。

飛鳥時代の都と平城京

飛鳥時代は593年から710年までの期間で、推古天皇の即位から平城京への遷都までを指します。

この時代には、仏教の伝来とともに様々な文化や政策が日本にもたらされ、日本は律令国家への道を歩み始めました。

都の歴史において、飛鳥時代の都は主に飛鳥京(593年から694年)と藤原京(694年から710年)でした。

この時代は、飛鳥京から藤原京への遷都が行われ、さらにその後に平城京へと遷都が行われました。

平城京は、奈良市に建設された都で、710年に遷都されました。

この都は、唐(中国)の長安をモデルとして造られ、大規模な都市となりました。東西に約4.3km、南北に約4.8kmの長方形の敷地に、外京を加えた総面積は約2,500ヘクタールに及びます。

朱雀大路と呼ばれる幅約74mの大通りがあり、都市は碁盤の目のように整然と区画されていました。

平城宮は政治・儀式の場である大極殿・朝堂院、天皇の宮殿である内裏、役所などが集まる中心地でした。

周囲には大垣がめぐらされ、朱雀門など12の門が置かれました。平城宮にはごく限られた人々しか入ることができず、皇族や貴族、役人などが暮らしていました。

現在、平城宮跡は特別史跡として世界遺産に登録され、歴史を感じる散策の場となっています。

また、大極殿の跡が2つ残されているのは、聖武天皇が都を転々と移す中で、大極殿を解体・移築したためです。現在の平城宮跡には、元明天皇が建てた第一次大極殿と、聖武天皇が建てた第二次大極殿の跡が残っています。

まとめ

飛鳥時代は、日本史上の時代区分の一つで、主に6世紀後半から8世紀前半までの期間を指します。以下に、飛鳥時代の特徴や重要な出来事をまとめます。

飛鳥時代の政治と社会

飛鳥時代は、飛鳥地域(現在の奈良県高市郡明日香村周辺)や藤原地域(現在の奈良県橿原市)が政治・文化の中心地でした。

大和政権と呼ばれる集権的な政権が形成され、中央集権的な支配体制が整いました。

天皇が中心となり、貴族や豪族が政治の中枢を占め、律令制度が整備されました。

飛鳥時代の仏教の伝来と文化の発展

6世紀に朝鮮半島から仏教が伝来し、飛鳥時代には寺院や仏像の建立が盛んに行われました。

仏教文化の影響を受け、彫刻や絵画、建築、文学などの文化が発展しました。

飛鳥寺や法隆寺など、多くの寺院が建立され、仏教文化が栄えました。

飛鳥時代の外交と戦い

飛鳥時代には、朝鮮半島や中国との交流が盛んに行われました。

663年の白村江の戦いでは、日本が新羅とともに唐と戦い、敗れて撤退するなど、外交的な軋轢もありました。

飛鳥時代の文学と文化

万葉集などの古典文学が生まれ、日本文学の基礎が築かれました。

飛鳥時代の歌謡は、当時の生活や感情を伝える貴重な資料となっています。

飛鳥時代の遷都と都市計画

飛鳥時代には、都の遷都が複数回行われました。藤原京や平城京などの都市が築かれました。

平城京は、中国の都市長安をモデルにした都市計画が行われ、日本最初の律令制度が整備されました。

飛鳥時代は、日本の歴史上、文化や政治の基盤が整い、日本の古代文化や制度の基礎が築かれた重要な時代でした。

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