鎌倉時代とは、日本の歴史上、約150年間続いた時代であり、鎌倉に幕府がおかれた時期を指します。
この時代には、鎌倉幕府が京都の朝廷と並び、全国を統治する中心となり、武家政権が初めて確立されました。
この時代には、二度の元寇や地震、飢饉、疫病などの災害が相次ぎ、50回もの元号改元が行われました。また、鎌倉仏教が庶民と武士に広まりました。
源頼朝が鎌倉殿として全国に守護を置き、1185年から1333年まで鎌倉幕府が続きました。
幕府は鎌倉殿の私的家政機関であり、全国の武士を完全に支配下に置くことはありませんでした。その後、北条氏が執権となり、幕府の実権を掌握しました。幕府は徳政の興行などを行い、朝廷との関係を安定させようとしました。
経済的には、武士の土地所有が安定し、開墾が進み、鎌倉文化が栄えました。文化芸術も発展し、仏教や美術が武士や庶民に愛されました。また、商品経済が拡大し、定期的な市が各地に立ちました。
しかし、土地の分割相続や貨幣経済の浸透により、御家人の生活は困窮しました。さらに、元寇や幕府の政策に不満を持つ者も現れ、騒乱や乱が発生しました。鎌倉幕府は災害や内乱により次第に衰退し、最終的には崩壊しました。
鎌倉時代の年表を紹介
1183年(寿永2年): 寿永二年十月宣旨
1185年(文治元年): 守護・地頭の設置が文治の勅許に基づいて行われる。
1189年(文治5年): 奥州合戦が起こる。
1192年(建久3年): 源頼朝が征夷大将軍に就任する。
1199年(建久10年): 頼朝の死後、源頼家が家督を継ぐ。
1200年(正治2年): 十三人の合議制が開始され、梶原景時の変が起こる。
1201年(建仁元年): 建仁の乱が勃発する。
1203年(建仁3年): 比企能員の変が起こり、頼家が幽閉され源実朝が将軍に就任する。
1204年(元久元年): 三日平氏の乱が勃発し、頼家が暗殺される。
1205年(元久2年): 畠山重忠の乱と牧氏事件が発生する。
1213年(建暦3年): 泉親衡の乱が起こる。
1219年(建保7年): 実朝が公暁に暗殺される。
1221年(承久3年): 承久の乱が勃発し、六波羅探題が設置される。
1224年(元仁元年): 伊賀氏事件が発生し、連署が設置される。
1225年(嘉禄元年): 評定衆が設置される。
1226年(嘉禄2年): 九条頼経が将軍に就任し、摂家将軍制度が始まる。
1232年(貞永元年): 御成敗式目が制定される。
1246年(寛元4年): 宮騒動が起こる。
1247年(宝治元年): 宝治合戦が発生する。
1249年(建長元年): 引付衆が設置される。
1252年(建長4年): 将軍頼嗣が京へ送還され、宗尊親王が将軍に就任し宮将軍制度が始まる。
1272年(文永9年): 二月騒動が発生する。
1274年(文永11年): 文永の役が起こる。
1281年(弘安4年): 弘安の役が発生する。
1285年(弘安8年): 霜月騒動が勃発する。
1293年(正応6年): 鎌倉大地震及び地震の混乱に乗じた平禅門の乱が発生する。
1297年(永仁5年): 永仁の徳政令が発布される。
1305年(嘉元3年): 嘉元の乱が発生する。
1317年(文保元年): 文保の和談が行われる。
1324年(正中元年): 正中の変が勃発する。
1326年(正中3年→嘉暦元年): 嘉暦の騒動が起こる。
1331年(元弘元年〈元徳3年〉): 元弘の乱が発生する。
1333年(正慶2年、元弘3年): 鎌倉幕府が滅亡する。
鎌倉時代の出来事を紹介
鎌倉幕府は最初、将軍(実際には「鎌倉殿」で、征夷大将軍の地位は必須ではない)を中心に据えていました。
源氏(河内源氏の源頼朝系統)の直系将軍は3代で絶え、将軍の座は公家(摂家将軍)やその後には皇族(皇族将軍)を置く傀儡の役職になり、実権は将軍から十三人の合議制に移りました。
更に、和田合戦や宝治合戦、平禅門の乱などにより北条氏以外の他の氏族を幕府から排除し、権力を北条氏に集中させる動きが強まりました。
こうして実権は、頼朝の妻である北条政子を経て、執権であった北条氏に移っていきました。
執権北条時頼が執権を退いた後も執政を行ったことから、幕府権力は執権の地位よりも北条氏本家(得宗家)に集中するようになりました。
執権在職者も幕府の最高権力者としてではなく、宮騒動や二月騒動のように得宗家に反抗する名越北条家などの傍流や御家人が排除されることになりました(得宗専制)。
北条氏の功績としては、御成敗式目の制定が挙げられます。
これは、公家法からの武家社会の分離であり、法制上も公武が分離したことを示します。
北条氏による他氏排斥に伴い、諸国の守護職などは大半が北条氏に占められるようになり、さらに北条氏の家臣である御内人が厚遇され、御家人や地方の武士たちの不満を招くことになりました。
執権北条時宗の代には、2度にわたる元寇があり、鎌倉幕府はこれを撃退しましたが、他国との戦役であり新たに領土を得たわけではなかったため、十分な報奨を与えることができず、これもまた武士たちの不満を高める要因となりました。
北条貞時の代になると、御内人の権力が増大し、得宗の権威すら凌ぐようになりました。
貞時は平禅門の乱で平頼綱を討ち、得宗へ権力を戻そうとしましたが、末期には政治への無関心から再び御内人が実権を握るようになりました。
また、貨幣経済が広がり、市場が生まれました。
多くの御家人が経済的に苦しみ、庶民階級の商人から借金を重ねることになりました。
1284年には弘安徳政、さらに1297年には永仁の徳政令が実施され、没落した御家人を救済しようとしましたが、十分な報奨がなかったり、商人が御家人に金を貸すことを嫌ったりしたため、御家人の不満と混乱を招く結果となりました。
後醍醐天皇による鎌倉幕府打倒は、この武士たちの不満を利用して行われることになります。
守護・地頭
1185年、源頼朝は大江広元の提案を受けて、全国に守護・地頭を設置しました。
守護は一国に一人ずつ配置され、謀反人の殺害や国内の御家人の統率が役割です。
地頭は公領や荘園ごとに設置され、年貢の徴収や土地管理が役割でした。幕府の権威を背景に荘園を侵略し、年貢を一定額で管理する地頭請や、荘園を地頭分と領家分に分割する下地中分など、横暴な行為も見られました。
鎌倉時代の文化
鎌倉文化とは、鎌倉幕府が成立した1300年末期から1500年前半までの時期に生まれた文化を指します。
王朝政権から武家政権への移行に伴い、従来の伝統文化と新しい庶民の感覚が融合した文化が形成されました。
当時の中国(唐)から亡命してきた人々もおり、その中には若い僧侶も多く、新たな仏教の宗派が興りました。日蓮宗や浄土宗などがこの時代に誕生しました。
建築では、新たな様式の大仏や禅宗寺院と、日本独自の様式が見られます。
また、武士の時代であった鎌倉時代には武具の生産が盛んであり、多くの名刀が作られました。
新しい宗教
鎌倉時代には多くの新しい宗派が生まれました。
禅宗では、瞑想の修行法である「禅定」が重視されました。
浄土宗は「南無阿弥陀仏」を唱えて極楽浄土への道を示す宗派です。
浄土真宗は「他力本願」の教えを持ち、阿弥陀如来の力に頼って成仏を目指します。
日蓮宗は妙法蓮華経を重視し、「差別なく万人を平等に成仏できる」という教えを持ちます。
曹洞宗は「坐禅」が中心で、修行そのものが悟りを得ることとされます。
臨済宗は自己と向き合うことを重視し、「座禅で悟りを得る」という教えを持ちます。
禅林文化
禅宗寺院は禅林とも呼ばれ、中国から来た僧侶が禅を広めました。一部の僧侶は中国でさとりを開き、日本に禅を広めました。
鎌倉幕府は多くの文化や新しい宗教を生み出しましたが、その滅亡のきっかけとなったのが元寇です。
元寇の際に御家人に対する報酬が不足したことで不満が高まり、後醍醐天皇による倒幕計画が進行しました。これにより鎌倉幕府は滅亡し、天皇政権が復活することとなりました。
鎌倉時代の主要な人物の紹介
鎌倉時代には多くの重要な人物が活躍しましたが、その中でも特に著名な人物をいくつか紹介します。
源頼朝(Minamoto no Yoritomo)
源氏の出身であり、平氏打倒の功績を持ち、鎌倉幕府の初代将軍として政権を確立しました。頼朝は鎌倉時代初期に政治の安定化や武士団の統制を図り、武士政権の基盤を築きました。
北条時政(Hōjō Tokimasa)
鎌倉幕府の執権であり、源頼朝の義父です。頼朝の死後、幕府の実権を握り、政務を執り行いました。時政の代に幕府の政治体制が整備され、北条氏が幕府の中枢に君臨する時代が到来しました。
北条義時(Hōjō Yoshitoki)
北条氏の第2代執権であり、時政の息子です。彼の代には幕府の政治が安定し、武士団の統制や地方統治の強化が行われました。義時は鎌倉幕府の黄金期を築き上げました。
日蓮(Nichiren)
日蓮宗の開祖であり、鎌倉時代に活躍した宗教家・思想家です。他の宗派に対して批判的であり、国家への強い影響力を持ちました。彼の活動は日蓮宗の拡大や宗教界の動揺をもたらしました。
新田義貞(Nitta Yoshisada)
鎌倉時代末期の武将であり、南北朝時代の動乱期に活躍しました。鎌倉幕府に対する反乱を起こし、鎌倉を攻略して幕府を滅ぼすなど、武力行使によって歴史に大きな影響を与えました。
これらの人物は鎌倉時代の政治や文化に大きな影響を与えました。
まとめ
鎌倉時代は、1185年から1333年までの約150年間にわたる日本の歴史の時代です。
この時代は、鎌倉幕府が権力を握り、武士が中心となる武家政権が形成された時期として知られています。以下に鎌倉時代の主な特徴をまとめます。
源頼朝と鎌倉幕府の成立: 鎌倉時代は、源頼朝が平氏を滅ぼし、鎌倉に幕府を開いた1185年を起点とします。
源頼朝は、地方の武士や有力な豪族を統制し、武士団を組織して幕府を支えました。
武士の支配と地方分権
鎌倉時代には、武士階級が政治の中心となりました。
幕府は地方に守護や地頭を派遣して統治を行いましたが、実際の権力は地域の武士団や有力な豪族が握るところもあり、地方分権の傾向が強まりました。
御家人制度の確立
鎌倉時代には、武士団が成長し、御家人と呼ばれる家臣団が幕府に仕える体制が確立されました。御家人は武士道を重んじ、主君に忠誠を誓うことが求められました。
新たな仏教宗派の興隆: 鎌倉時代には、新しい仏教宗派が興りました。特に、禅宗や浄土宗などが庶民の間で広まり、宗教的な活動が盛んに行われました。
文化の興隆
鎌倉時代には、武士の文化が栄えました。武士の間では武芸や詩文、茶道などが重んじられ、また、仏教文化も庶民の間で普及しました。
元寇と幕府の衰退
鎌倉時代後期には、元寇と呼ばれるモンゴル帝国の侵攻がありました。
この戦いで幕府は国内の武士を動員しましたが、戦後には御家人の不満が高まり、幕府の衰退につながる要因となりました。
鎌倉幕府の滅亡
鎌倉時代の終わりには、後醍醐天皇を中心とする倒幕運動が起こりました。これにより、1333年に鎌倉幕府は滅亡し、武士政権は終焉を迎えました。
鎌倉時代は、日本の歴史において重要な時代であり、武士の文化や制度の確立、新たな宗教の興隆など、様々な変化が起こった時代として記憶されています。