室町時代は、日本の歴史において室町幕府(足利将軍家)によって支配された時代を指します。この時代は、京都の室町に幕府が置かれていたことに由来しています。
広義には、1336年(南朝:延元元年)または1338年(延元3年)から1573年(元亀4年)までの237年間、もしくは235年間に及びます。狭義では、南北朝合一(1392年)までの最初の約60年間を南北朝時代、その後の時代を戦国時代と区分することもあります。
室町時代は、足利尊氏によって幕府が開かれた時代から始まりましたが、1392年に南北朝が統一され、武家が優位に立ちました。幕府は中央の政権であり、地域の守護大名もその監督下にありながら、両者は相互補完的な関係を築きました。
この時代には、農民や商人が社会に登場し、日本史上初めて民衆が顔を見せるようになりました。戦乱が続く中でも、経済面では農業や工業が発展し、生産と流通が盛んになりました。文化面でも充実した時期でした。
さらに、些細な問題が大きな騒動に発展することがよくあり、幕府も手を焼きました。このため、紛争解決のために第三者が仲裁役を務める慣習が生まれました。
後醍醐天皇は建武の新政を始め、先進的な法令改革を行いました。これらの改革は後の政策や法制度の基礎となりました。
室町時代の歴史と代表的な人物を紹介
幕府の安定期
1367年、足利義詮が亡くなり、10歳の義満が3代将軍として就任しました。
この時期には、畠山国清や大内弘世、上杉憲顕、山名時氏など、反幕府勢力が幕府に従っており、九州では後醍醐の皇子である征西将軍懐良親王が明朝から「日本国王」として認められ、勢力を拡大していました。
中央の南朝側はほぼ抵抗を失っていました。管領の細川頼之は若い将軍を助け、1368年に南朝側の楠木正儀を寝返らせ、九州の南朝勢力を排除するために今川貞世を派遣し、内政面では新興の南禅寺と旧仏教勢力の比叡山との対立問題に対処し、幕府権力の安定化に努めました。
1379年には政変で頼之が失脚し、斯波義将が後任に就任しました。
義満は将軍直轄の軍事力を整え、山名氏や大内氏などの有力守護大名を追討し、将軍権力を強化し、南北朝を合一し、天皇に対する権力を確立しました。
足利義満の死後、4代将軍の足利義持は斯波義将に補佐され、義満に対する太上天皇の追号を辞退し、勘合貿易の停止など義満の政策を否定し、幕政を保守的なものに戻しました。
これは、義満晩年の政策に不満を持つ武士たちの反発に応えたものでした。義持は実子の義量に将軍職を譲り、その後義持自身も後継者を決めずに死去しました。6代将軍は籤引きで選ばれ、義満の子である義円が将軍に就任しました。
義満が南北朝合一を達成し、幕府権力を強化したものの、義満の急死後は大名合議制に戻り、相対的に将軍の権力も低下しました。
また、民衆による土一揆の発生や後南朝による再興運動など、幕府にとっては新たな問題が発生しました。
そのような中で、諸大名は領国統治の必要性から将軍の権威低下を避けようとしました。
足利義教が将軍になると、土岐氏や赤松氏、大内氏などの有力守護大名の後継争いに干渉し、将軍権力を強化しました。しかし、その後、義教は強硬な政治姿勢に反発した人々の不満を招き、「嘉吉の乱」で暗殺されるなど、将軍の力は衰えました。
応仁の乱
その後、畠山政長と畠山義就の間で家督を巡る争いが起こりました。
宗全は義就を味方に引き入れ、義就に上洛を促しました。
これは宗全が幕政を支配することを狙ったものでしたが、同時に政長に肩入れする勝元との対立を意味していました。
義政は宗全・義就の優位を悟り、政長を罷免し、斯波義廉を新たな管領に任命しました。
政長はこれに反発し、将軍御所をうかがう姿勢を見せました。
義政は畠山家への軍事介入を禁じ、義就と政長を一対一で対決させることで事態の収拾を図りました。
勝元は義政の命令に従いましたが、宗全はこれを無視し義就と共に政長を攻撃しました。政長は敗走し、勝元の屋敷へと逃げ込みました。勝元は宗全との全面対決を決意しました。
その後、両者の対立は京都に大規模な軍事衝突を引き起こしました。
これが応仁の乱です。
細川方を「東軍」、山名方を「西軍」と呼びました。
義政は東軍に将軍旗を与え、西軍を賊軍としました。
東軍は優位に立ちましたが、大内政弘が入京すると西軍は盛り返しました。
更に、義政が貞親を政務に復帰させると、これに反発した義視は西軍へと奔り、西軍諸将は義視を新将軍として認めました。
これにより足利将軍家は二つに分裂しました。
戦局が膠着状態になると両軍の間に厭戦感情が広がりましたが、和睦反対派が説得されず、兵を撤退させることが困難でした。
結果的に長期化した軍事衝突は勝敗がつかず、京都が焦土となるだけで終わりました。
しかし、応仁の乱をきっかけにした戦闘は地方へと拡大し、戦国時代の始まりとなりました。
その後も室町殿と東山殿の二重権力状態が続きました。
義政の芸術保護は後の東山文化発展の基礎となり、日本文化に大きな影響を与えました。
一方、義尚は義政の影響力を排除するために室町第ではなく近江で政務を行うようになりました。
応仁の乱以降、多くの守護大名が京都を離れ、守護在京制が形骸化しました。これは幕府の権威が失墜したことと、大名が自らの実力で領国支配を行う必要性から生じました。
室町時代の終焉
応仁の乱により、将軍の権威は大きく揺らぎ、幕府の力は衰退しました。
足利将軍家の一部は亡命し、堺や鞆、放生津などの亡命幕府を築きましたが、一方で軍事力は保持されました。
義政が隠居した後、義尚は六角行高を討伐するために軍を率いて京へ向かいました。
しかし、義尚が若くして病没したため、討伐軍は撤退しました。
その後、義尚の子である義視も六角征伐を試みましたが、その後の政変により将軍家の運命は大きく変わりました。
政元は管領職を世襲化し、将軍の廃立権を握りましたが、内紛で暗殺されました。
政元の後を巡る争いが始まり、永正の錯乱と呼ばれる内紛が勃発しました。その後、足利義材が将軍の座に復帰しましたが、政変や内紛が相次ぎました。
結局、京都周辺を治める一地方勢力へと幕府の機能は崩壊し、将軍は名ばかりの存在となりました。
しかし、後に政権を握った晴元も不安定な状況に直面し、内紛が続きました。その後、義輝が将軍に就任しましたが、政権を巡る争いが激化し、永禄の変で将軍は暗殺されました。
義輝の死後、義昭が将軍となりましたが、信長との対立が深まり、京都から追放されました。その後、信長の支配下に入った義昭は、京都からの下向をもって幕府の終焉とされ、新たな時代が始まりました。
信長の死後、羽柴秀吉が台頭し、足利時代は静かに幕を閉じました。
室町時代の文化について紹介
室町文化は、足利氏が京都に室町幕府を開いた時代の日本の文化を指します。南北朝時代の後、3代将軍足利義満の時代に北山文化が栄え、その後8代将軍足利義政の時代に東山文化として成熟しました。戦国時代には、さらに文化が広まり、民衆化や地方への普及が進みました。広義では南北朝文化も含まれることがあります。
武家が公家を圧倒し、政治的にも大きな発展を遂げた時代でした。足利氏を中心に、有力な守護や上層武士が京都に多く居住し、伝統的な公家文化と接触しました。また、海外との交易によって大陸文化が伝えられ、武家はそれらの影響を受けながらも、自らの力強さと公家文化の美を融合させ、新しい武家文化を育んでいきました。
一方で、庶民の社会的地位が向上し、商工業の発展に伴い町衆や農民が文化の担い手となりました。その結果、文化の交流が広がり、庶民性や地方の特色が強調されました。庶民文芸の発展や鎌倉新仏教の地方への普及などがその表れでした。猿楽や狂言、連歌などは広く愛され、喫茶の風習も茶の湯として広まりました。これらの文化は、団欒的な性格や日常生活に根ざしたものであり、当時の武士や庶民、都市民の生活に合致していました。
室町文化の流れには、北山文化と東山文化という2つの頂点がありました。これらの文化は、武家が政治や経済だけでなく、文化の面でも時代を代表する存在となったことを示しています。さらに、室町文化は16世紀中葉には天文文化へと発展しました。これらの文化は地方に広まり、多くの小京都が生まれ、やがて国民文化として発展していきました。
北山文化
大陸文化や日本文化、公家文化と武家文化など、多様な文化が融合し、活気にあふれる一方で、足利義満の時代の文化には荒々しい側面もありました。
3代将軍義満は京都の北山に壮大な山荘を建設しましたが、その中に建てられた金閣の建築様式は、伝統的な寝殿造りと禅宗寺院のスタイルを組み合わせたもので、時代の特徴をよく表しています。
そのため、この時代の文化を北山文化と呼んでいます。
東山文化
禅の精神に基づくシンプルさや枯淡な味わい、伝統文化における風雅や幽玄、侘寂を精神的基調とするのが、足利義政の時代の文化です。
北山文化で花開いた室町時代の文化は、その芸術性が日常の中に取り込まれ、新しい独自の文化として根付いていきました。
8代将軍義政は、応仁の乱後に京都の東山に山荘を建て、そこに祖父の義満に倣って銀閣を建造しました。
この時期の文化は、東山山荘に象徴されることから東山文化と呼ばれています。
戦国期の文化
応仁の乱を契機にして、地域が独自性を強め、それに伴い京都の公家や僧侶の中には、京都が荒廃するのを避けて地方都市へ移り住み、その地の大名や国人に頼る者が現れました。
その中には、関白であった一条教房が土佐国幡多荘に移り、子孫が土佐一条氏として戦国大名となった例もあります。
教房の父である一条兼良も奈良や美濃に移り住んでいます。一方、商工業の発展や郷村制の成立に伴い、都市の商工業者や農民の間でも新しい文化が生まれていきました。
戦国時代の中でも、特に学芸に関心を持ったのは、越前の朝倉氏、駿河の今川氏、周防の大内氏などでした。
大内氏は勘合貿易による富や大陸文化の影響もあり、山口の城下町では画僧雪舟をはじめとする多くの僧侶・学者・公家が集まり、「大内版」と呼ばれる出版事業も行われました(大内文化)。
連歌は武家の間で広く行われ、宗祇のように九州から東国まで諸国を巡る連歌師もいました。こうした連歌師の地方巡業は、大名・武士・庶民への文化の普及に大きな役割を果たしました。
儒学も大名たちにとって必要な学問と認識され、桂庵玄樹は明から帰国後、九州を巡り肥後の菊池氏や薩摩の島津氏に招かれて講義し、後に薩南学派を興しました。土佐でも南村梅軒が朱子学を講じ、北陸地方では清原宣賢が畠山氏や武田氏、朝倉氏などの大名のもとで儒学を教えました。
足利学校の全景
一方、東国では上杉憲実が下野国足利に足利学校を再興し、全国の僧侶や武士が学ぶ場となりました。
足利学校は後に小田原の後北条氏によっても保護され、キリスト教の宣教師であるフランシスコ・ザビエルが「日本国中最も大にして最も有名な坂東のアカデミー」と評したほどでした。また、漢詩僧の万里集九や雪舟も地方を訪れています。
この時代は、地方の国人や土豪たちも所領経営のために読み書き計算が必要とされ、文字の普及が進みました。
農民が書いた土地証文なども増え、文字が庶民にも広く普及する時代でした。
また、『庭訓往来』や『御成敗式目』、『実語教』などは武士の子弟教育に利用されました。さらに、饅頭屋宗二による国語辞典『節用集』や安佐井野宗瑞による医書『医書大全』も刊行されました。
建築と庭園
建築では、北山に建造された鹿苑寺金閣は義満による寝殿造と禅宗仏殿の融合で、北山文化の象徴となりました。
また、義政が建てた慈照寺銀閣は禅宗仏殿と書院造を組み合わせた建築で、楼閣建築の特徴でもありました。
また、慈照寺内の東求堂同仁斎は四畳半の座敷で、初期の書院造とされ、和風建築の原型となりました。商工業の発展に伴い、庶民の邸宅にも2階建ての家屋が見られるようになりました。
連歌と茶の湯
和歌の上句と下句を連ねる連歌は鎌倉時代から発展し、室町時代には最盛期を迎えました。
宗祇や二条良基、宗長、心敬らの連歌師が出現し、大名や公家僧侶が寺社に集まって連歌会が開かれました。
連歌は貴族から庶民まで広まりました。茶の湯は南北朝時代の闘茶や茶寄合が村田珠光によって侘び茶となり、千利休によって完成されました。
この茶道の流行は陶磁器の発展を促し、美濃焼や楽焼などの新しい窯業が生まれました。
絵画と彫刻
絵画では足利将軍家の支援により、山水画や水墨画が発展しました。明兆や如拙、周文から雪舟による水墨画が完成しました。
これらの絵画は宮廷や公家だけでなく、武家や禅宗寺院の影響を受けています。
狩野元信は水墨画と大和絵を融合させ、狩野派として知られるようになりました。庶民階級の富裕化により、風俗画や遊楽画なども登場しました。
彫刻では、仏教彫刻に加えて能面彫刻が作られ、建築の装飾彫刻も発展しました。
民衆文化
室町時代は惣村の成立や都市の発展により、庶民が文化の中心になる時代でした。
庶民の間では御伽草子や庶民芸能が人気を集め、日本料理の基本要素も広まりました。礼法では、足利義満が公家と武家の礼法を明確に定め、武士の教養として弓術や蹴鞠、庖丁を重視しました。
学問と思想
学問の担い手は禅僧や公家でした。京都の五山では漢文学や朱子学の研究が行われ、公家は和歌や古典の研究を行いました。
また、関東では足利学校が再興され、商人や武士の間でも独自の出版が行われました。
宗教と思想
仏教では禅宗や日蓮宗が広まり、武家文化と貴族文化が融合しました。神道では吉田兼倶が吉田神道を創始しました。
また、室町時代にはキリスト教も日本に伝わりました。
史書
『増鏡』や『太平記』などの史書には宮廷社会の動向や南北朝時代の記録が残されています。また、日記史料も室町時代の情勢を知る貴重な資料となっています。
室町時代の出来事
農業
鎌倉時代から農業の生産力が向上しました。
二毛作の技術や牛馬耕、水車を使った灌漑施設の整備、肥料の発達などが西日本から関東地方に広まり、生産力が向上しました。
また、農業技術の進歩により、集約的で多角的な農業が行われ、自立した農民が育ちました。
これにより、郷村制が成立しました。特に、室町時代にはベトナムから占城米が伝来し、収穫量が増加しました。
室町時代後期には、荘園領主や戦国大名が広域を支配し、政治権力と経済力による灌漑工事や治水事業が行われ、生産力が飛躍的に向上しました。
手工業
農民の自立に伴い、工人も解放されて手工業が一般的になり、市場が形成されました。
日用品や農具、織物、紙などが生産され、各地方の特産物が生まれました。また、京都の西陣では明から輸入した生糸を使い、西陣織がつくられました。
日明貿易の関係から、堺や山口、博多などの都市近辺で高級織物が生産され、製紙業や製陶業も発展しました。
商業
農業生産力の向上や手工業の独立により、市場が成立しました。定期市や常設の店舗、卸売市場、問屋が生まれました。
行商人は連雀商人と呼ばれ、楽市・楽座によって商業独占体制が廃止されました。
経済
標準貨幣は永楽通宝でしたが、明銭が輸入されて流通しました。
流通貨幣が不足し、銭飢渇の状態が生じました。私鋳銭や鐚銭が流通しましたが、商取引に支障をきたしました。
都市
市場の成立や交通の整備により、都市が発展しました。
余剰生産物の市場流通や宿場町の形成が進みました。守護大名は城下町を整備し、街道沿いの宿場も拡大しました。
鉱山事業
室町時代には鉱山開発が活発化し、金山や銀山の開発が行われました。
特に、博多の商人神屋寿禎による石見銀山での灰吹法の導入が生産量を向上させました。
交通
貨幣経済の浸透や地方都市の発展により、街道の整備が進みました。幕府や寺社、地方領主による関所が設置され、交通が活発化しました。
室町時代の外交関係
海賊と航海者の活動
室町時代には、倭寇と呼ばれる無国籍の海上勢力が活動しました。
これらの倭寇は、東アジア地域全体で活動し、海賊行為や密貿易などを行いました。
また、世界的には大航海時代が始まり、ヨーロッパ人も東アジアでの活動を広げました。
日中関係
商業の町である堺や博多、坊津から出航し、寧波で貿易活動が行われました。
一時期、足利義持が明との貿易を停止しましたが、後に再開されました。その後、細川氏と大内氏が貿易の実権を巡って衝突しました。
日朝関係
朝鮮王朝との国交と貿易がありました。足利義満は倭寇を取り締まり、朝鮮との交易を行いました。
さらに、朝鮮からの使者が足利義満に対して信を通わす使命を持って派遣されました。
琉球
琉球王国は、中山王尚氏によって1429年に建国され、明朝の冊封を受けました。
琉球は貿易に重点を置き、明や朝鮮だけでなく、東南アジアにも独自の中継貿易を行いました。将軍足利義持も琉球王への返礼の書状を送り、室町時代には琉球が「日本」として認識されました。
北方世界
鎌倉時代末期には蝦夷の反乱があり、北海道に居住する和人とアイヌの間で衝突が起きました。
北州では和人の勢力が広がり、アイヌとの戦いもありました。1457年にはアイヌの酋長コシャマイン率いる部族が蜂起し、和人との戦闘が行われました。
まとめ
室町時代(1336年-1573年)は、日本の歴史において、南北朝時代から安土桃山時代への移行期間に位置する重要な時代です。
足利将軍家の成立と室町幕府の樹立
1336年に足利尊氏が鎌倉幕府を滅ぼし、室町に幕府を樹立したことで室町時代が始まります。
尊氏の子である足利義詮が初代の室町幕府将軍となりました。
南北朝の内乱
南北朝時代は、室町時代初期に南北朝の内乱が激化しました。
足利尊氏の子の足利義満が北朝方を支援し、南朝方を滅ぼしました。
1392年に南北朝の和睦が成立し、北朝の光明天皇が南朝の後亀山天皇に譲位することで統一が実現しました。
室町文化の栄華
室町時代には、文化・芸術が繁栄しました。この時代には能楽や茶道、俳諧、狂言などの文化が発展しました。
また、京都の花街や茶の湯の広まりなど、後の文化の礎が築かれました。
守護大名の台頭
室町時代中期以降、守護大名が勢力を拡大しました。戦国時代への移行期として、各地で戦国大名が勃興しました。
この時期には、守護大名同士の抗争が激化し、国内情勢が不安定化しました。
日明貿易の展開
室町時代には、日明貿易が盛んに行われました。中国との貿易により、日本の文化や技術が発展しました。
この時期には、明との交流によって新たな文化や制度がもたらされました。
外交と対外関係の重要性
日本と朝鮮・琉球・明などとの交流が盛んに行われ、外交関係が重要視されました。これは、後の豊臣秀吉や徳川家康の時代にも続きます。
室町時代は、日本の歴史において政治・経済・文化の発展が見られる重要な時期であり、戦国時代への過渡期としてもその影響が大きい時代でした。