安土桃山時代と戦国時代の違い

安土桃山時代とは、日本の歴史において織田信長と豊臣秀吉が政権を握っていた時期を指します。

これに対して戦国時代は、全国各地の大名が戦いを繰り広げていた時代を指します。

織田信長の本拠地があった安土城(滋賀県近江八幡市安土町)と、豊臣秀吉の本拠地があった伏見城(京都市伏見区桃山町)に由来して、安土桃山時代と呼ばれています。

特に、豊臣秀吉が全国を支配した時期は桃山時代と呼ばれ、この時期の文化は桃山文化と称されています。

ただし、「桃山」という名称は、江戸時代に廃城となった伏見城の跡地に桃の木が植えられたことから来ており、桃山城という城が存在していたわけではありません。

安土桃山時代の特徴

安土桃山時代の始まりと終わりについては、複数の見解があります。

始まりとしては、織田信長が足利義昭を奉じて京都に入った永禄11年(1568年)、義昭が京都から追放されて室町幕府が事実上崩壊した元亀4年(1573年)、または安土城の建設が始まった天正4年(1576年)などの説があります。

終わりについては、豊臣秀吉が亡くなった慶長3年(1598年)、関ヶ原の戦いで徳川家康が勝利した慶長5年(1600年)、家康が伏見城で征夷大将軍に任じられ江戸幕府を開いた慶長8年(1603年)などの説が考えられています。

「織田・豊臣の時代」をどこで区切るかによって異なり、室町時代や戦国時代と重なるため、定義が難しい時代です。

安土桃山時代の主な出来事

この時代は約30年の短い間に日本が大きく変わった時期でした。主な出来事を以下に紹介します。

南蛮貿易と西洋文化の流入

安土桃山時代が始まる少し前から、日本にはスペインやポルトガルなどの西洋諸国から多様な文化が入ってきました。

種子島に鉄砲が伝わり、フランシスコ・ザビエルによってキリスト教が広まりました。

その後も、多くの西洋人が訪れ、南蛮貿易が盛んに行われました。彼らは毛織物やガラス製品、時計など、当時の日本では珍しい品をもたらしました。

織田信長はこの西洋文化に大いに興味を示し、キリスト教の布教や南蛮貿易を支援しました。

織田信長の勢力拡大

織田信長は尾張(現在の愛知県)の一部を支配する小さな大名から、駿河(現在の静岡県)の大名・今川義元を「桶狭間の戦い」で破り、勢力を広げました。

尾張、美濃(岐阜県)、近江(滋賀県)を制圧し、京都へ進出しました。足利義昭を京都から追放した後、「長篠の戦い」で武田勝頼を破り、天下統一に近づきました。

安土城の建設

信長が安土に築いた安土城は、それまでの城の概念を覆すものでした。

防御よりも居住性や景観を重視し、「平和な時代」を象徴するような城でした。

安土城を拠点に中国・九州地方の平定を進めようとしていた矢先、「本能寺の変」が起こり、家臣の明智光秀の裏切りによって信長は命を落とし、安土城も焼け落ちました。

豊臣秀吉の天下統一

本能寺の変後、明智光秀を討った豊臣秀吉が織田政権を継ぎました。

秀吉は関白に就任し、1590年に関東の北条氏を滅ぼして天下を統一しました。

秀吉の政策としては、一揆を防ぐために僧侶や農民から武器を取り上げた「刀狩」や、年貢の徴収量を把握するための「太閤検地」があります。

また、中国への進出を目指して朝鮮に出兵しましたが失敗し、2度目の出兵の翌年(1598年)に伏見城で亡くなりました。

安土桃山時代の文化

安土桃山時代に花開いた文化は桃山文化と言われています。

桃山文化は、織田信長と豊臣秀吉の時代に発展した文化で、秀吉の最後の居城である伏見城に由来しています。

この文化は、豪華で壮大なスタイルが特徴であり、新興の大名や豪商たちによって育まれました。仏教的な要素が少なく、現世的で南蛮文化の影響を受けた文化でした。

茶の湯の流行とわび茶の発展

この時代、茶の湯が大いに流行し、中国からの輸入品である名物茶道具が珍重されました。

一方で、千利休によって質素で内省的なわび茶が確立されました。茶器は大名から家臣への報奨として使われ、茶会は武将と豪商を結びつける重要な行事となりました。

南蛮文化の影響

特筆すべきは、フランシスコ・ザビエルが天文18年(1549年)に来日して以降の南蛮貿易の影響です。

この貿易によって西洋文化が日本に直接もたらされ、初めて正式な形で西洋文化と接触する機会を得ました。

豪華な城郭建築と絵画

安土桃山時代には、豪華絢爛な城郭建築が次々と築かれました。

実用的な要素よりも、権力を誇示するための豪華な天守を持つ城が多く建てられました。

世界遺産の姫路城もこの時代の流行に合わせて改修されました。また、城の天井やふすまを飾る障壁画も発展し、狩野永徳をはじめとする絵師たちが金銀をふんだんに使った華やかな絵画を描きました。

千利休と茶の湯

千利休が確立したわび茶は、質素さの中に美を見出すもので、庶民の間でも大流行しました。茶の湯の流行に伴い、茶室や茶道具の需要も高まりました。

安土桃山時代の美術史

美術史では、1644年までを安土桃山時代とすることが一般的です。特に「桃山文化」や「桃山美術」という場合、秀吉が権力を握った天正半ばから慶長の終わりまでを指します。

この時期、京都やその周辺では秀頼による社寺建設が続き、各地でも建築活動が盛んでした。

関ヶ原の戦いによる政権交代後も、文化的な断絶はなく、桃山文化は変質しながらも発展を続けました。一方で、桂離宮のような洗練された数寄屋建築や、日光東照宮のような豪華な建築が生まれました。

安土桃山時代はどんな時代だったのか?

安土桃山時代は織田信長と豊臣秀吉ですので、織田信長と豊臣秀吉の生涯を追っていくとどんな時代だったのか理解しやすいとおもいます。

織田信長の政権

織田信長は、勢力を強めて足利義昭を奉じて京都に上洛し、天皇や室町幕府の将軍の権威を利用して畿内および東海地方を支配しました。

彼は、兵農分離や弓矢から鉄砲への主力武器の転換といった軍事改革を行い、楽市・楽座の実施や関所の廃止、自治都市の支配、撰銭令などの経済政策も導入しました。

1573年に信長が足利義昭を京都から追放すると、室町幕府は事実上崩壊し、織田政権が確立しました。

信長は天正4年(1576年)に安土城を築き、自由商業都市として発展させました。彼の支配により、京・堺・安土および長崎を中心に新たな南蛮文化が花開きました。

しかし、信長は1582年の本能寺の変で自害し、その天下統一の夢は途絶えました。

歴史学者たちは、信長の権力を「織田政権」や「信長権力」とさまざまに呼称し、その権力の特異性と影響力を評価しています。

信長の権力は、戦国大名の権力とは異なり、近世の統一権力の先駆けとなったとされています。

豊臣秀吉の天下統一

信長の死後、羽柴秀吉(豊臣秀吉)は明智光秀を討ち、織田政権内での主導権を掌握しました。

秀吉は信長の後継者として地位を固め、1583年には大坂城の築城を開始し、1586年には関白・太政大臣に任命されて豊臣姓を賜り、1590年に日本国内の統一を達成しました。

彼は刀狩令や太閤検地などを実施し、農民から武器を取り上げる一方で、農地を石高で測量し、農民の耕作権を認めました。

秀吉はまた、商業都市を直轄地とし、広域商業の発展を促進しました。堺、博多、長崎などの主要都市は直轄地となり、各地で特産物都市が興隆しました。

南蛮貿易を通じて西洋文化や技術が日本に伝来し、南蛮文化が広まりました。

豊臣時代の終焉

秀吉の死後、豊臣政権は内部で文治派と武断派に分裂し、徳川家康が実力者として頭角を現しました。

関ヶ原の戦い(1600年)で勝利した家康は、1603年に征夷大将軍に任命され、安土桃山時代は終焉を迎え、江戸時代が始まりました。

安土桃山時代の年表

元亀4年(1573年) – 足利義昭が京都から追放され、室町幕府が事実上崩壊。

天正3年(1575年) – 長篠の戦いで武田勝頼が敗北。

天正4年(1576年) – 織田信長が安土城を築く。

天正8年(1580年) – 織田信長、顕如を降伏させて石山本願寺との対立を終結。

天正9年(1582年) – 本能寺の変で織田信長が死去。山崎の戦いで明智光秀が敗北。

天正9年(1582年) – 清洲会議で織田信長の後継問題が発生し、賤ヶ岳の戦いで羽柴秀吉が柴田勝家を討つ。

天正10年(1583年) – 羽柴秀吉が石山本願寺跡に大坂城を築城。

天正11年(1584年) – 小牧・長久手の戦いで羽柴秀吉と織田信雄、徳川家康が和睦。

天正13年(1585年) – 羽柴秀吉が関白に就任し、四国を平定。

天正14年(1586年) – 羽柴秀吉が太政大臣に任命され、豊臣姓を賜る。聚楽第を建てる。

天正15年(1587年) – 九州征伐を行い、その後博多で伴天連追放令を発布。

天正18年(1590年) – 小田原征伐で北条氏が降伏し、豊臣秀吉が日本を統一。天正の地割が実施される。

文禄元年(1592年) – 豊臣秀吉が唐入り(朝鮮出兵)を開始。

文禄元年(1592年) – 伏見の指月に隠居用の屋敷を建設。

文禄3年(1594年) – 指月の屋敷を改修し、伏見城の築城を本格化。

文禄5年(1596年) – 伏見城が完成するが、慶長伏見地震で天主が倒壊し、木幡山で再築城開始。

慶長2年(1597年) – 木幡山伏見城が完成。京都にも新たな邸宅を建設。

慶長3年(1598年) – 豊臣秀吉が伏見城で死去。明征伐が終結し、駐屯軍撤退。

慶長5年(1600年) – 関ヶ原の戦い。伏見城の戦いで伏見城が落城。

慶長7年(1602年) – 徳川家康が伏見城を再建。

慶長8年(1603年) – 徳川家康が伏見城で将軍宣下を受け、征夷大将軍に就任。

慶長19年(1614年) – 大坂冬の陣。

慶長20年(1615年) – 大坂夏の陣で豊臣氏が滅亡。

まとめ

安土桃山時代(1573年 – 1603年)は、日本の歴史における短期間ながらも重要な時期です。この時代は、織田信長と豊臣秀吉の二大人物によって特徴づけられ、政治的・文化的に大きな変革がもたらされました。

織田信長の時代

政権の確立

織田信長は、足利義昭を奉じて京都に上洛し、天皇や室町幕府の将軍の権威を利用して、畿内および東海地方を支配しました。彼は室町幕府を事実上崩壊させ、独自の政権を築きました。

軍事改革と経済政策

信長は兵農分離を実施し、主力武器を弓矢から鉄砲に転換するなどの軍事改革を行いました。また、楽市・楽座、関所の廃止、自治都市の支配などの経済政策を導入し、経済的な自由度を高めました。

文化の発展

信長の支配下で京・堺・安土および長崎を中心に南蛮文化が広まりました。彼の築いた安土城は、経済と文化の中心地として栄えました。しかし、1582年の本能寺の変で信長は自害し、その天下統一の夢は途絶えました。

豊臣秀吉の時代

天下統一

信長の死後、羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)が明智光秀を討ち、織田政権内で主導権を握りました。秀吉は1583年に大坂城を築き、1590年に日本を統一しました。

政策と改革

秀吉は刀狩令や太閤検地を実施し、農民から武器を取り上げ、農地を石高で測量して農民の耕作権を認めました。また、広域商業を発展させ、堺、博多、長崎などの商業都市を直轄地としました。

南蛮文化と貿易

秀吉の時代には、南蛮貿易が盛んになり、西洋文化や技術が日本に伝来しました。南蛮料理や喫煙文化が広まり、南蛮人との交流も深まりました。

豊臣時代の終焉

秀吉の死後、豊臣政権は内部で分裂し、徳川家康が台頭しました。関ヶ原の戦い(1600年)で家康が勝利し、1603年に征夷大将軍に任命され、江戸幕府を開きました。これにより、安土桃山時代は終焉を迎え、江戸時代が始まりました。

安土桃山時代は、織田信長と豊臣秀吉の指導のもと、政治的統一が進み、経済政策や軍事改革が行われた時代です。

また、南蛮貿易によって西洋文化が日本に伝来し、文化的にも大きな影響を与えました。この時代の終焉とともに、徳川家康による江戸時代が幕を開け、日本の歴史は新たな段階に進みました。

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