古代の時代区分には、「古墳時代」があります。
これは西暦250年から538年までの時期で、弥生時代の後に続くもので、前方後円墳などが盛んに築かれた時代です。
具体的には、3世紀中頃から7世紀末までを指します。『日本書紀』によると、応神天皇は難波大隈宮に行宮を置き、倭国の首長である仁徳天皇は難波高津宮を建てて都を定めました。
この時代には、住吉津や難波津などの港が開かれ、倭国が統一されていく過程にありました。
同じ時代を指すものとして、「大和時代」という文献上の時代区分もあります。
これは『日本書紀』や『古事記』によって記されています。
古墳時代とはどんな時代?
この時代にはヤマト王権が倭(やまと)の統一政権として確立したと言われています。
外交面では、4世紀以降、朝鮮半島に進出し、新羅や百済を臣従させ、高句麗との戦争が激しくなったとする解釈があります。
好太王の広開土王碑文などからその一端がうかがえます。5世紀には、倭からの使者が中国に派遣されました。
倭が朝鮮半島で得た鉄資源は、甲冑や武器、農具、工具などに利用されました。
また、大陸からは文字(漢字)や仏教・儒教がもたらされました。
『隋書』によれば、新羅や百済は倭国を珍重し、倭への貢物のやり取りがあったと記されています。
古墳時代の生活や文化
この時代の人々は土師器や須恵器などを食器や調理具、貯蔵具として使用していました。
土師器は縄文土器や弥生土器から続く伝統的な焼成方法である「野焼き」で作られていましたが、4世紀後半から5世紀前半には朝鮮半島から渡来した人々によって陶器と窖窯の技術がもたらされ、須恵器の生産が始まりました。
集落では、竪穴住居や平地建物、高床建物などが建てられていました。
例えば、群馬県渋川市の黒井峯遺跡では、竪穴住居が集まって世帯を形成し、それらが垣根で区画されていました。黒井峯の集落には広場や畑もありました。
古墳時代中期(5世紀)には、竪穴建物に竈(カマド)が導入されました。
これは、地床炉から進化したもので、渡来人によって導入されました。このカマドの導入は、調理方法に革命をもたらし、日本全国に広まりました。
また、この時代にはカマドを信仰の対象とする文化も広まりました。
古墳時代の遺跡からは、カマドを祀る祭祀の跡や、カマドに関連した遺物が見つかっています。
さらに、馬の導入や水田耕作の拡大もこの時代に起こりました。
馬は軍事や農耕に使用され、水田は小区画から大型水田へと発展しました。また、新しい水田造成技術が導入され、新たな水田開発が行われました。
最近の研究では、古墳時代に日本列島で大規模な戦争は確認されていないという結果が報告されています。
古墳の歴史
古墳の出現は、ヤマト王権の統一政権が成長する過程で各地の有力者によって築かれたものとされます。
一般的に、3世紀半ばを過ぎると出現期の古墳が見られるようになりましたが、年輪年代測定や放射性炭素年代測定が十分に確立されておらず、その精度や方法には多くの議論があります。
したがって、古墳時代が3世紀に始まったという主張には反対する声もあります。
4世紀後半から5世紀前半にかけて、奈良盆地などには前代よりも大きな前方後円墳が現れました。
4世紀後半から5世紀にかけて、奈良盆地北部の佐紀(ソフ)地域には大きな王墓が4つ築かれ、4世紀末から5世紀初頭には大阪平野にも巨大な古墳が建設されました。
5世紀中ごろには、各地に巨大な古墳が建設されるようになりました。
しかし、6世紀末には前方後円墳の建設がほとんど行われなくなりました。
これは、ヤマト王権が確立され、中央と地方の統治組織が整備され、より強力な政権が成長したことの表れとされています。その後しばらくの間、方墳や円墳が建設され続けました。大王の墓は特別に八角墳として築かれました。
古墳時代に入ると、王族や貴族の大きな古墳、地方の有力者の古墳、集合墓などが築かれ、埋葬における階層化が顕著になりました。
被葬者の身体的特徴にも違いが見られるようになりました。
大型古墳の被葬者は一般的に身長が高く、170センチ近くに達することもありました。
地方の有力者の墓の男性被葬者の平均身長は約160センチで、横穴墓の被葬者はさらに低く、約158センチでした。
古墳時代の人骨の特徴は、縄文時代や弥生時代の人々の骨格の頑丈さが目立たなくなったことです。
この傾向は、特に大型古墳の被葬者に顕著であり、一般の常民の墓の埋葬者ではさほど顕著ではありませんでした。
また、最新のDNAゲノム解析によれば、古墳時代の人骨から抽出されたDNAには、現代の日本人とほぼ同じ割合で、縄文時代や弥生時代の人々には見られない東南アジア系の遺伝子が含まれていることがわかりました。
これは、現代の日本人が縄文時代と弥生時代の渡来人(北東アジア系)との混血であることに加えて、古墳時代に大規模な東南アジア系の渡来人との混血があったことを示唆しています。
古墳時代はなぜ終わったのか?
6世紀末から7世紀初めにかけて、大王や各地の有力な首長たちが築いていた前方後円墳の建設が終了しました。
この時期、各地での古墳建設の終焉は、ヤマト政権による強力な規制の結果と考えられます。
中国ではこの時期、隋が南北統一を達成し、270年ぶりに中国に中央集権国家が誕生しました。
隋は598年に高句麗を攻め、朝鮮半島へ進出する姿勢を見せました。
これらの動向が朝鮮半島諸国や倭国に大きな危機感を与え、倭国では古い首長連合体制や前方後円墳といった象徴から決別し、大王を中心とする中央集権的な国家形成を目指すようになりました。
前方後円墳の建設が終了した後も、古墳の建設は約100年間続きました。
この時期を古墳時代の終末期と呼び、その時期の古墳を終末期古墳と呼びます。
ただし、「古墳時代」という用語は考古学的な便宜上の区分であり、日本史では飛鳥時代に相当します。
終末期に入ると、かつて前方後円墳を築いていた支配層は、大型の方墳や円墳を築くようになりました。
近畿地方では大型の方墳として大阪府の春日向山古墳(陽明天皇陵、一辺約60m)、円墳として奈良県の塚穴山古墳(径65m)が築かれました。地方では、千葉県の龍角寺岩屋古墳(一辺80m)や栃木県の壬生車塚古墳(径80m)などがあります。
7世紀中頃から8世紀初頭にかけて、近畿の大王は八角墳を築くようになりました。
これは、従来の前方後円墳や方墳とは異なる形式の墳墓を築くことで、大王の特別性を示そうとするものでした。
その後、有力な首長層はしばらくの間、古墳の建設を続けましたが、7世紀末には彼らも顕著な古墳を築くことを控え、大王とその一族、そして一部の有力な支配層だけが小規模な古墳を築くようになりました。
これらの動きは、中央集権国家への移行や律令国家の形成に応じたものであると考えられます。
まとめ
古墳時代は、日本の歴史の中で飛鳥時代の前に位置する時代であり、大きな古墳が築かれた時期として知られています。以下に、古墳時代の要点をまとめます。
時代の位置づけ
古墳時代は、紀元前3世紀から7世紀末までの日本の歴史の時代区分の一つです。
縄文時代と弥生時代の後に位置し、飛鳥時代の前に続きます。
古墳の建設
古墳時代の特徴の一つは、巨大な古墳の築造です。
前方後円墳や円墳など、さまざまな形式の古墳が築かれました。
古墳は主に豪族や王族の墓として造られ、そこに埋葬された人々には高い社会的地位が与えられていたと考えられています。
社会の構造
古墳時代の社会は、豪族や王族が中心となっていました。
大きな古墳の築造や副葬品の豪華さから、社会の階層が顕著になっていたと考えられます。
文化の交流
この時代には、朝鮮半島や中国との交流が盛んに行われました。
文化的な影響や技術の伝播があり、古墳や副葬品にそれらの影響が見られます。
終焉
古墳時代の終わりには、古墳の築造が停止し、社会構造が変化し始めました。
中央集権的な国家形成への移行や、律令国家の形成への過渡期と考えられています。
遺跡や出土品
考古学的な研究により、古墳時代の遺跡や出土品が多く発見されています。
これらの遺跡や出土品は、古墳時代の社会や文化を理解する上で重要な資料となっています。
古墳時代は、日本の歴史の中で重要な時期であり、日本の古代文化の形成に大きな影響を与えました。